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美川村二十年誌

第四節 大宝寺と岩屋寺

 古代の久万山を考えるとき最も重要なものに菅生山大宝と、海岸山岩屋寺がある。大宝寺は大宝元年(七〇一)の創建といわれ、岩屋寺は弘仁六年(八一五)に弘法大師の開基と伝えている。寺や神社の起源を書いた縁起というものは史実としてそのまま信用することはできないが、ひじょうに古い時代につくられたことは確かである。
 両寺のことを記した縁起の最も古いものとして鎌倉時代の正安元年(一二九九)に作られた「一遍聖絵」という絵巻物が現存している。これは道後に生れた一遍上人の一代記を弟子の聖戒が書いて、円伊という絵師が絵を添えた一二巻ものであるが、この中に文永一〇年(一二七三)に上人が岩屋にこもって修行したことが、岩屋の風景画を添えて記されている。この中に両寺の縁起を次のように述べているのである。

 ここは観音が現れた霊地であり、仙人修行の古跡である。仏教のまだ弘まらぬ時代に安芸国の猟師が、この山に入って狩をしていた。ある夜、朽木に弓を当てて獲物をねらっていたが、その後、この古木が夜半光を発するので昼になってよく見ると、これはひじょうに古い木で所々苔むし、洞の中に金色に光る人の形をしたものがある。この猟師はまだ仏菩薩のことを聞いたことはなかったが、これは観音であるとさとって弓を棟梁とし、着ていた菅簑を上葺として草舎を作って安置しておいた。のち三年ばかりしてまたこの山に来てその場所を探したところ、菅の生い茂る中に本尊が厳然といらっしやるので、うれしく思い立派に堂を建てて菅生寺と呼んで信仰をつづけ、猟師はこの地の守護神となった。今も野口明神と呼ばれてまつられている。のち用明天皇のころ隋の国から使が来て、文帝のきさきが観音の霊瑞によって懐胎したと言って三種の宝物を捧げ、自らも留まって守護神となり、白山大明神として堂の南に祀られた。のちにこの堂に廂をつけ加えたが火災が起り、廂だけが焼失した。また火災があって堂舎は焼けたが、本尊と三種の宝物は自らとび出して前庭の桜の木に登った。その後また火災があって本尊はさきのように桜の木にのがれ、堂は焼けたが三種の御物は灰の中に焼け残っていた。前庭の桜は本尊出現の朽木の若木である。このように仏教最初のころから霊験あらたかな本尊である。
 仙人は土佐国の女人で観音の霊験を尊び、この巌窟にこもり、五障の女身から抜け出ようとして一心に法華経を読誦した結果、飛行自在の身となった。ある時は文珠菩薩と普賢菩薩が、またある時は地蔵菩薩と弥勒菩薩も現れたので、それぞれその場所に名をつけた。四十九院の窟は仙人が父母のために極楽を現じた跡であり、また三十三所の霊窟は行者が霊験を祈る場所である。ここには奇岩怪石の連峰がそばだち、月は法身常住の姿をみがき、幽洞のほとりは草木茂り、風は妙なる音楽をかなでて焼香供華すると見え、仙人の読誦経典の声も信仰心ある人々は今なお聞くと言う。仙人は衆生救済のため遺骨をとどめたので一宇の精舎を建てて万人の良縁を結ばせている。ここの今一つの堂舎は弘法大師御作の不動尊を安置しており、大師修行の古跡は不動尊とともに、もとのままに残っている。

これは原文をわかり易く書きかえたものであるが、「一遍聖絵」は上人参籠の地を、菅生の岩屋と記しておるように、明らかに大宝寺と岩屋寺の縁起を混同している。観音出現は大宝寺のことであり、仙人修行は岩屋寺であるが、昔は岩屋寺は大宝寺の奥の院とされていたので一寺のように記したものか。後世の縁起類では観音像を発見したのは豊後国の猟師で明神左京と隼人の兄弟となっているが、これは「一遍聖絵」の語る所が原形で、後世いろいろつけ加たとばかりは言えない。明神左京、隼人の名を記した別の縁起が古くからあったのかも知れない。
 聖戒が「一遍聖絵」を書いた六八〇年前の鎌倉時代に、すでに両寺の建立は遠い昔のこととして明らかでないところを見ると大宝元年、弘仁六年とまでは遡らないにしても、ずい分と古い由緒ある寺であり、したがって久万山の歴史の古さも推察されるわけである。