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美川村二十年誌

第一節 伊予の河野氏

 鎌倉時代から戦国時代の終りにかけてのおよそ四〇〇年間、伊予国の中心となるのは河野氏である。
 河野氏が古代の名族越智氏から分れた家柄であることは定説となっているが、河野氏を称するようになったのは、平安時代末期に風早郡河野郷(現北条市)に居所を定めたことによる。
 源頼朝が伊豆国から平氏討伐の旗上げをしたのに応じて、河野通清、通信の親子は翌年の養和元年(一一八一)に高繩山で兵を挙げて平氏の軍と戦った。父の通清は戦死したが、通信は寿永三年(一一八四)に平氏追討に向った義経を助けて、伊予水軍を指揮して屋島、壇の浦で戦い、その武功を賞されて道後七郡の守護となり家門繁栄の基を開いた。
 しかし、源氏滅びて北条氏の世となると志をのばす事が出来ず、承久の変(一二二一)では京都方に味方して敗れ、北条氏のためにその所領を奪われ、通信は奥州平泉に流された。こうした悲運の中で通信の子の通久だけは北条氏に味方したため、わずかに久米郡石井郷(現松山市)を保っていた。通久の家を継いだ甥の通有は、蒙古襲来のとき、敵艦に乗り移って勇戦力闘したことで有名であり、通有の従兄の通尚は仏門にはいり、念仏をすすめて全国を行脚した一遍上人である。伊予国では窪寺(現松山市窪野)で三年の修行をし、また文永一〇年(一二七三)に岩屋寺に参籠したことは先に述べた。
 南北朝時代六〇年の河野氏の動きは複雑である。一族の土居、得能の二氏が天皇に味方して新田義貞らと行動を共にしたのに対し、通有の子通盛は足利尊氏に随って勢力の得て再び河野郷を根拠地とした。湊川の戦でその部下の砥部荘の豪族大森彦七は大いに戦って、太平記の中で「楠木正成に腹を切らせし者なり」と記されている。
 やがて通盛は根拠地を河野郷から逆後湯築城に移して、足利方の中心勢力となるのであるが、その後通盛の子通朝は同じ足利方の讃岐の細川氏に攻込まれて敗死した。そのため一子通堯は細川氏に対抗するため天皇方に寝返って活動することになる。
 しかし足利氏も三代義満の世となると天下の大勢はきまる。通堯も義満に従って伊予国守護職の地位を得る。
 応仁の乱を経て戦国時代にはいると、湯築城の河野氏の勢いは衰えてくる。これに対して新興勢力である土佐国の長宗我部元親が四国の統一を志して侵略して来るようになる。湯築城の河野氏にとって南の防禦線である久万山の状況を述べなければならない。