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美川村二十年誌

第二節 大野氏と大除城

 河野氏の支配する浮穴郡久万郷、小田郷の地は一、二〇〇㍍以上の四国山脈を距てて土佐国の吾川、高岡の二郡と接しているため、土佐側がよほどの決意をもって侵略して来ないかぎり安全であった。したがって天下争乱の中にあっても小田郷を持つ日野・林・土居・安持の四家、久万郷の舟草・明神・山之内・政岡・森・立林・菅家・梅木・山下らの一八家も、安らかに所領を治めていた。
 それが、幡多郡中村を根拠とする公家一条氏が戦国大名に成長して近隣の土豪たちを配下にくり入れてくると平和は破られた。土佐側から国境線を越えてしばしば侵略、小ぜり合いが行われるようになってくる。
 河野氏はこれを防ぐため、郷民の希望にこたえて明神村に大除城を築いた。現在の国道三三号線が松山に向って久万町をすぎ、西明神にはいろうとするあたりの川向うの高さ二〇〇㍍の山頂に作られたので、大除とは、「大いに敵を払い除く」という意味であった。久万・小田郷ではこの大除城を中心に三〇余の支城を要所々々に作って、土佐勢に備えた。
 土佐国にも主力の交替があった。天文八年(一五三九)に長岡郡岡興に生れた長宗我部元親は、長ずるにしたがってしだいに鬼才を発揮し、永禄七年(一五六四)には土佐の中央部を支配していた本山氏を滅ぼして、久万郷に接する吾川郡の南部一帯をその手中におさめるに至った。その威力は久万山に及 んだ。河野氏について記した「予陽河野家譜」というものを見ると、天正二年(一五七四)に長宗我部元親と大除城主大野直昌との間に笹ヵ峠の戦というものがあったことが記されている。笹ヵ峠は今日の大野ヵ原であるといわれる。
 直昌の弟に喜多郡菅田城主大野直之という者があったが、これがひそかに土佐の元親と手をにぎって主家筋の湯築城主河野通直に叛いたので、河野は五千余騎の兵を送って直之を攻めた。
 長宗我部方は元親の妹婿の波川玄蕃という者に八百余騎をつけて伊予に送り、直之を援助させたが、これに対して中国の毛利氏は河野を助けて宍戸隆家、吉川元春、小早川隆景らの部将に一万余騎をつけて送ったので、土佐方は大いに恐れて降伏した。
 直之は死罪に処せられる所であったが、河野家では兄直昌の日頃の忠勤振りに免じて寛大な処置をとり、小田で三百石余を与えて住まわせ、その行動を直昌に監視させることにした。しかし直之はこの処置を不服として、ひそかに妻子をつれて小田を出て土佐にのがれ、元親をたよった。
 あくる天正二年八月に、元親の使者西村左近が大除城に来た。そして、
「直之も前非を悔い、また妻子や家来たちも他国の生活の不便を訴えているので、何とか河野家に取りなして、もとの菅田城に帰れるようにはからってほしい」
という書面を直昌に差出した。これに対し直昌は元親のはからいの労を謝したが、翌月の閏八月上旬に、西村は再び大除城を訪れて、
 「兄弟の和解はまことに喜ばしい、ついては今月の下旬、直之をつれて予土国境で会見し、隣国のよしみを通じたい」
という元親の書面を手渡した。そして西村との話し合いで、時は閏八月二五日、所は予土国境の笹ヵ峠ときめられた。
 その当日、元親ははるばる直之をつれて笹ヵ峠の甫見江坂まで、また直昌方はそこから五十町ばかり離れた樋ヵ崎まで出向いた。そして互に連絡をとり合って会見場所へと進んだとき、突如として草むらの茂みから土佐方の伏兵二百余人が閧の声をあげて、久万山勢めがけて攻撃して来た。
 まったく思いもよらぬことである。不意をつかれた直昌方は、それでも応戦の態勢をとって防戦につとめたが、土佐方の術中におちいり、直昌の弟東筑前守はじめ七十余人のくっきょうの武士達が相ついで討死するという大損害をうけた。しかし流石に大野直昌は知勇兼備の将であった。一族の尾首掃部・尾崎丹波・土居式部・日野九郎左衛門らと力を合せて勢力を挽回して土佐勢を切り崩し、相手方の死傷も八十余人におよんだ。ついに甫見江坂の東まで土佐勢を追い散らし、勝閧をあげたというのである。
 この戦いの模様を、さらにくわしく記したものに久万、小田の旧庄屋家に伝わる、「熊大代家城主大野家由来」とか、「大野直昌由諸聞書」などがある。しかしこの戦いについてはいろいろ疑問がある。事実とはうけ取れぬふしがある。藩政時代に久万・小田地方の各村々の庄屋となった家すじは大野家の家臣の子孫が多いので、あるいは先祖の功業を誇るため作られた部分が多いのではないかと考えられる。だが、この天正二年あたりから急に大除城主大野家が衰えて来たこと、現に大野ヶ原という地名が残っている事実などから見て、この通りの戦いはなかったにせよ何か土佐方との間に衝突のあったことが想像される。
 なお前記の「大野直昌由諸聞書」などによって大除城の支城を調べて見ると、現在の美川村分に四城があったことが判る。城の名・所在・城主名は次の通りである。
 鷹森城 熊七鳥古味成  越 智 帯 刀
 石本城 熊大川梅ノ木  梅 木 馬之介
 銭尾城 熊日ノ浦    菅  新左衛門
 高森城 熊有枝内分   佐 伯 重兵衛
 もっとも当時の城というものは大除城にしても近世の城郭建築のようなものではない。武士といっても平時には城地の近くの平地に居宅を構え農耕のかたわら軍事の訓練をし、戦争となると住居を引き払って兵粮・武器を運び上げて城地に立てこもる手筈だったと思われる。したがって城というよりも、「かきあげ」または「とりで」と呼ぶにふさわしい手軽く築きあげた城塁で、あり合せの材木で周囲に柵を立てめぐらし、見張りと防禦に当る程度であった。なお右の四城主のうち鷹森城の越智帯刀は、笹ヵ峠の討死七十余人の一人であったと記されている。
 大除城の支城の一つに久万入野に天神森城というのがあり、その城主は梅木但馬というが、七鳥の畑の中に古い墓が一基あって、正面に「興元院真閣英寛居土」とあり、側面に梅木但馬守菅原高賢・天文二癸巳年三月九日、と没年が刻まれている。天文二年は西暦一五三三年であるから大除開城の天正一三年よりは五三年も前に死んでいるので、さきの「熊大代家城主大野家由来」に大除開城後に七鳥村に移り住んだという梅木但馬は、恐らく墓の主の子か孫であろう。但馬は代々の襲名と考えられる。
 この墓石の形式がいかにも新らしい所から見て、これは遠孫が先祖のために作ったものであろう。梅木家はずっと藩政時代を通じて東川村の庄屋役を勤め、また享保九年(一七二四)までは七鳥村・仕出村の庄屋役も兼ねていたというから、恐らく何代目かの庄屋が供養のために建てたものと思われる。