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美川村二十年誌

第二節 四国遍路

 久万山には四国八八ヵ所の札所のうち四四番の菅生山大宝寺と四五番の海岸山岩屋寺があって、全国各地からの遍路の巡拝がある。このことが久万山住民に他国の人に接する機会を与え、そのことによって文化を高めることにも役立ったように考えられる。
 四国八八ヵ所の巡拝はいつごろから始まったであろうか。弘法大師の死後、弟子の真済がその遺跡を遍礼したのに始るといい、あるいは五一番石手寺の由来に出てくる衛門三郎という者が、大師の跡を追って四国の霊地を巡ったのが遍路の始まりともいわれている。
 八八ヵ所の文字の記されたものは高知県土佐郡本川村の地蔵堂にかけられた鰐口の銘に、「:…村所八十八ヶ所、文明三天三月一日 妙政」とある西暦一四七一年のものが現存するものでは最も古いようであるから、すでに室町時代のころには八八ヵ所の巡拝が行われていたものであろう。しかしそれは今日の四国八八ヵ所の札所とは一致しない。
 巡拝が盛んになったのは江戸時代も西暦一七〇〇年ころの元禄時代からで、高野山の寂本が元禄二年(一六八八)に書いた「四国遍礼霊場記」や真念の「四国遍礼道指南」といった案内書が出るようになってからであろう。この寂本の「四国遍礼霊場記」を見ると一番に讃岐国の善通寺をおき、札所は九四ヵ所ある。八八ヵ所を現在のように一番を阿波の霊山寺におき、ずっと阿波・土佐・伊予・讃岐とまわり、八八番大窪寺に終るようなコースを取るようになったのは正徳年間(元年は一七一一年)以後のことである。このコースから考えて四国巡拝をはじめたのは西国三三ヵ所の巡拝をはじめた畿内の人々が、四国路へ足をのばして鳴戸に渡り、鳴戸の一番霊山寺からはじめて讃岐国大川郡長尾町の八八番大窪寺で終り、そこからほど近い阿波の一〇番切幡寺に出て、はじめに来た道を九番、八番と逆にたどって鳴戸に出て船で帰るという便宜のように思われる。
 文化・文政といった江戸時代も後期ののどかな時代になると一般人の四国巡拝も盛んとなって来たと見え、例の弥次喜多の「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎一九が「金の草鞋」というものに四国遍礼を書いてある。大宝寺・岩屋寺のあたりは次のように記してある。
 ……此先にひわた坂、大洲と松山御領分の境、それより熊の町を過ぎて菅生村なり、
 四十四番すがう山大ほう寺大かく院、文武天皇の大宝二年建立、本尊十一面観音、御詠歌、
  今の世は大悲の恵みすがう山
   道には弥陀の誓ひをぞ待つ
 此の間、すべて接待多し、
 これよりはたの川、此の処にて荷物を預けて、いわやへ行くべし、此所へもどるなり、菅生にて梅干の施行ありければ、
  施行とて菩提の種を蒔きつるは
   これ梅干のすがう山なれ
 それより住吉・薬師堂・焔魔堂を過ぎて、右の方の道を行く、此所より岩屋ヘ一里山坂道なり、
  四十五番窟寺かいかん山
   この寺の岩山の姿面白く、本尊石の不動なり、
   御詠歌、
    大衆の祈る力の実に窟
    石の中にも極楽ぞある
 これよりはたの川へもどり、住吉の宮より右へ行く、かさ村・東明神・西明神坂、峠より松山の御城、みつの浜・伊予の小富士見えて絶景なり。
とある。大宝寺から峠御堂の峠道を越えて下畑野川に出て荷物を預け、五㌔の山道を岩屋寺へ往復して畑野川にもどり、大宝寺の方へはもどらず住吉神社から千本・高野と歩いて西明神へと出たのであろう。かさ村は北村のあやまりであろう。作者は実際に来たのか、案内記類によって作ったものか、地名などにもあちこち間違いもあるようであるが今から一七〇年ないし一八〇年といった昔に十返舎一九が、わが郷土のことを書いてくれているのはうれしい。