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美川村二十年誌

第五節 飢饉と備荒貯蓄

 江戸時代における大名の財政窮乏は時代の進むにしたがって甚しくなってくる。参勤交代に要するおびただしい経費のほかに、幕府から課せられる江戸城、日光廟、京都御所の修理、東海道筋の川普請などの課役と、領内の風水火災、旱害の救助などに苦しんだ。さきに見たような百姓一揆は中期以後に全国的に多くなってくるのであるが、それは藩の財政難から年貢取立てがきびしくなったことに原因する。百姓一揆はまた三大飢饉といわれた享保・天明・天保期に激増しているが、これは財政難で藩の救済の手が行きとどかなかったせいであろう。
 享保一七年(一七三二)は、いわゆる享保の大飢饉の起った年で西日本全体が大被害をうけた。松山地方では五月二〇日頃から七月上旬まで長雨が降りつづいたため、中旬になると稲は枯れ腐り、その上にうんかの害が加わって田畑の作物を食い荒らし、それは雑草にまで及んで一本の青草も見られない有様となった。食糧が極度に欠乏したため、飢えた百姓たちは袖乞いと称して松山城下へ集団で押しかけたほどであった。
 松山藩の餓死者三、四八九人、牛馬の死三、〇九七頭という多数に上ったため、藩主定英は幕府から謹慎を命ぜられている。久万山の被害の状況は十分にはわからないが、享保の初年まで二万人といわれた久万山の人口がこの飢饉のために一万七、〇〇〇人となったという乏しい資料が被害のようすを物語っている。
 このころの久万山の百姓たちの常用食物は、はなこ団子・ぞうすい・田芋の類であった。はなこ団子というものの説明によると、
 とうもろこしの白き部分を粉にして団子としたるものなり、味もなく脂もなきものにして中等以上の農家にては多く牛馬の食糧とし、商家にありては捨てるものなり、白き部分を取る方法は、とうもろこしを臼にてひき割るとき、黄色の部分は米つぶ程にくだけ、向き部分は粉になるなり、
とあり、またぞうすいについては、
 これは、はなこ団子よりはやや上等のものにして、とうもろこしのひき割りたるもの又はひえを少量に醤油かすをまぜたる流動食なり、
とあり、田芋又は里芋というのは、
 いもをくしにさし、あぶりて飯料とするなり、
とあって、
 とうもろこしなどを通常の飯にたきたるは中等以上の農民の常食にして、貧家のものならず、
とある。これは明治一六年の記録であるから、江戸時代はこれ以下と見てよかろう。ふだんの生活がこれだから、一たび飢饉に見舞われると言語に絶する悲惨な状態となり、数知れぬ餓死者が出るわけである。畑作が全くない時の食糧としては、山野に自生する「かずね」または「すみら」というものを掘って食したということが、ものの本に見えるが、その説明によると、
 かずねと言いて葛の恨を山に入りて掘り食いしが、これも少くなれば、すみらというものを掘りてその根を食せり、この類はその根をくだき、水にさらし、それを団子に作り塩煮して食す、すみらというものは水仙に似たる草なり、その根を多く取り集めて鍋に入れ、三日三夜程水をかえ煮て食す、久しく煮ざればえぐみありて食し難く、三日程煮ればしごくやわらかになり、少し甘味もあるようなれど、その中にえぐみ残れり、はじめ一つはよく、二つめは口中に一ぱいになりてのどに下り難く、三つとは食し難きものなり、されど食つきぬれば皆ようよう之を食して命をつなぐ、哀れなること筆に書きつくべきにあらず、
と述べられている。文中の「かずね」というのは大へん掘りにくいが、山分では上等の食物とされている。「すみら」」というのは彼岸花の根ではないか、と思う。古老に聞くと明治一九年の風水害の時は争って他村まで掘りに行き、これすら掘りつくしたという。
 享保飢饉から四四年後の安永四年(一七七五)に、松山藩は財政困難と飢饉の備えとして、藩士には三年間の人数扶持、城下・三津などの町人には七年間銀を貯えさせ、各郡の村々に対しては同じく七年間の囲籾、つまり米を貯えることを命じた。藩士に対する人数扶持というのは最悪の給与で、禄高による米の支給をやめて家族数に応じて一人一日五合の米を支給するものである。家老の竹内久右衛門、遠山三郎左衛門はこの発令に際して、
 本来は年貢で万事をまかなわねばならぬのに今は手一ぱいで、幕府から公事を課せられても役目が果せぬし、領内の水旱災に対する貯えも全くない、いか程倹約してみても今のままでは右の余裕を生み出す手だてがない。
と述べており、村々の貯米については、
 飢饉の年を今年と考え上下苦労を共にして水旱に備えること、豊年でなければ出来ぬこと故、実施中途で水旱などあれば武士も町人も田に出て農業を助ける覚悟でいてほしい。この貯米は決して年貢米に混ずることなく別途に扱うことにする。
と説明している。それでは向う七年間に村々が命ぜられた貯米額は、どの位であったろうか。いま「浮穴郡廿五ヶ村手鑑」というものを見ると、松山領内の総額五万俵、一年間の積立てが七、一四二俵余、浮穴郡二五ヵ村の総額五、〇八七俵、一年間の積立て七二六俵余の割当てで一村平均一年に三〇俵ばかりであったことがわかる。ただしこの浮穴郡二五ヵ村というのは里分といわれた三坂以北をさしたもので、久万山二四ヵ村はこれとは別に割当てがあったはずであるが記録が見あたらない。おそらく村平均三〇俵たらずであったと思われる。これが奉行所の指揮によって一まとめにして久万町村に貯えられたようである。     
 この安永四年にはじまる囲籾の外に、久万山にその後に貯えられた米金は六種類あって、九〇年後の明治四年の廃藩置県のときに大庄屋に引き渡された。その総額は、
 米 三、六六九俵二斗九升一合
 金 二、三六三円九九銭
であった。その内訳の由来を要約すると、
 1、安永四年非常水旱災予備米
  はじめ「非常囲籾」とよんだ。畑所村の分は旧所村で引受けて積立て、毎年諸作の実るのをたしかめて秋の彼岸後に籾摺を許された。
 2、郡役人差配米
  発生年月不明、大庄屋の事務用として藩から各郡に渡された。久万山では年利一割で貸付けて利子二〇俵を村役人の給料に当てた。
 3、天保九年、藩よりの下され米
  天保飢饉のため諸郡に米千俵を下されたが、久万山分は二八石九斗九升八合あった。天保七年の飢饉は全国的で、特に関東が甚しかったといわれるが、久万山でも特に西谷村、大味川村の食糧不足は全戸におよび、木の葉、草の根を食いつくし、藁・黍のからにまで及んだ。牛馬に至っては哀れをきわめ、旧記に「人の足音を聞くや食物を欲する体にて、破れ壁よりやせたる頭を垂れ、その有様実に愍然、ついに多くは餓死したり」とある。藩の救助の手がのびて人の餓死はなかったが、翌八年の春と秋にチフスが流行して死亡者が続出した。同じく旧記に、「御代官津田半助殿、郡医岡本裕甫に命ありて郡内病人を治療せしめしに、八畳の間へ渋紙を敷きつめ薬を山の如く調合なし、西谷はじめ病者ある村毎に与えられたる程の有様なり」と書かれている。死亡を免がれた者も生計の道を失って庄居を捨て他国に離散する者が多く、明き家、門潰れが出来た。特に西谷村、大味川村に多かった。
 4、明門元備え金
  久万山の戸数減少を防ぐため、藩から下されたもの。その利子で家を建て農具を与えて人口増加をはかった。
 5、赤子養育米
  生計困難から嬰児の間引きが行われたので、弘化二年(一八四五)に久万山から差出した御用米一四〇俵が藩の都合で差戻されたのを出産救助に当てた。
 6、畑所年貢売米値違い積立
  弘化四年(一八四七)から二〇ヵ年の畑所の年貢銀納と米価との差額を代官奥平貞幹が積立てたもの。
 7、風損元備え
  嘉永二年(一八四九)の風水害は倒家一〇〇余戸、道路・橋の破損、作物は半作または皆無という惨状であったので、藩から米一、五〇〇俵、銭札一九貨余を下げ渡され、救済の残額を風損予備とした。
 明治四年の積立米金は以上のように天明・文政・天保の飢饉をはじめ、風水害・旱害・難民の救済につとめた剰余金の蓄積で、行き届いた藩政の賜と言うべきであった。
 これが今日に残る久万凶荒予備組合の起原となっている。長い組合の歴史を見ると明治一四年にこの共有財産を村々への分割争議があり、二代桧垣郡長が卓見を以てこれをおさえて久万山百年の計をたてて、積立てを植林事業と金融機関の設立に振向けた。久万銀行の前身、久万融通会社はこうして明治二六年に生れている。その後植林の育成につとめた郡長松旧虎次郎、それら先覚の志をついで三〇年間運営に当った組合長新谷善三郎らの功績は大きく、天災地変による被害者や生活困窮者、育英資金、その他関係町村を利する事業に使われ、今日なお二六三㌶余の山林の外、建物・有価証券・貸付金・積立貯金を共有財産として、運営をつづけている。
 明治四年の廃藩置県に際し、旧藩主久松定昭の東京移住を阻止しようとして「久万山強訴事件」が起っている。これは新しい時世への移りかわりが理解出来なかった頑民共の起した事件という批評もあるが、むしろ純朴な久万山人の旧主を慕う真情の表われと見るのが正しいと思う。