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美川村二十年誌

四、大正から昭和へ

 第一次世界大戦では我が国は戦火の地から遠く離れていたため、産業活動への支障はほとんどなくて東アジアの市場を独占し、綿製品や軍需品などを多量に輸出し、そのため日本経済は大いに栄えた。
 大正六年ロシア革命、その後も内乱がつづいたので日本はシベリアに兵を送る。尼港事件などもあって日本軍は大正一一年まで駐留していた。シベリア出兵で本村から二名の戦没者を出している。
 第一次世界大戦の影響で諸物価は二倍以上にはね上がり全国各地で米騒動が起きた。大正七年ころから景気が衰退を見せはじめ農村経済も苦境に立つようになる。そのうえ大正一二年九月一日、関東大震災があり我が国の産業界は大打撃を受けた。このころから政党政治の機運が高まり政界は政党政治化していく。
 昭和六年九月、満州事変勃発、昭和一二年七月七日戦火はついに華北に移り日華事変にと発展する。その後、戦線は拡大の一途をたどり長期戦の様相を見せながら、日本と中国の全面戦争へと進展する。我が松山歩兵第二二連隊の兵士も陸続と大陸に渡って行く。
 いっぽう食糧増産と確保のため小学校高等科を卒業した若者による満蒙開拓青少年義勇軍が組織され、その第一陣が昭和一五年二月一一日に出発する。我が弘形村からもあどけない少年が不安と希望を錯綜させながら数次にわたって渡満した。しかし戦局は必ずしも好転せず、現地で召集されるもの消息を絶つ者と、さまざまであった。拓士たちの血の出るような努力も昭和二〇年の敗戦を迎え、ことごとく水泡に帰した。
 昭和一六年一二月八日、太平洋戦争が始まり日本はアメリカ・イギリスに宣戦を布告する。忠君愛国・滅死奉公の旗印しのもと、一億総参加の戦争遂行体制を固める。軍部の政治面への介入、経済・思想の国家統制の強化もはじまる。
 太平洋戦争の進展につれ、国民は次第に耐乏生活に追い込まれていった。「ぜいたくは敵だ」・「ガソリンの一滴は血の一滴」・「欲しがりません、勝つまでは」の標語のもとに節約が強いられる。
 太平洋戦争も開戦当初は、はなばなしい戦果をあげ太平洋の島々をつぎつぎに手中に収めていったが、昭和一七年になると近代兵器を備えたアメリカ軍は反撃に転じ、太平洋の島々を奪還しはじめる。このごろから軍需物資も極度に欠乏して金属類の供出がはじまる。村内においても寺の鐘から、はては家庭のなべ・かま、橋の手すりにいたるまでおよそ金へんのついているものは回収される。
 昭和一九年にはサイパン島の守備隊の全滅、昭和二〇年二月には硫黄島の守備隊が玉砕して戦局はいよいよ緊迫して来る。太平洋の島々を基地とするB29重燦爆撃機や、グラマン機はほとんど毎日のように飛来し東京をはじめ日本の主要都市を焼き払う。同年四月、アメリカ軍はついに沖繩本島に上陸する。この島の守備隊に加わっていた松山歩兵第二二連隊の兵士二〇六六名は激戦の末、東風平村で連隊旗もろとも玉砕する。
 ここにおいて軍部は木土決戦の決意を固め、全国民に国土防衛を呼びかける。本村においてもアメリカ軍が高知へ上陸して北進することを想定し、銃後を守る老人や婦女子が竹槍訓練を受ける。船舶や軍用車両の燃料にする松根油が採取されたのも、このごろである。七月二六日、県都松山市が大爆撃を受け、八月六日には広島市へ世界で始めての原爆投下。八月八日には日ソ不可侵条約を破ってソビエトが日本へ宣戦布告、九日には長崎市へ原爆第二弾の投下、ついに我が国の敗戦は決定的となる。
 八月一五日、天皇陛下の大英断によって日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国側に無条件降伏をする。
 その日、正午の玉音放送を聴いた村民は無念の涙を流した。満州事変以来の第二次世界大戦には村内のほとんどの家庭から出征者を出し、しかも一五〇名の戦没者のあったことを、我々は永久に忘れてはならない。
 元寇の役以来、神風と日本の必勝を信じてすべて戦争に賭けていた一億国民もまったくの放心状態に陥る。軍隊からの復員者、都会での戦災者などがつぎつぎに帰郷して家という家は悉く塞がり、一軒の家に三世帯もの家族がひしめき合うところもでた。二一年一月には、各学校の御真影奉還、勅語類の焼却、訓練用銃の処分などが慌だしく行なわれる。
 占領政策のおしすすめられるなかで、二一年一一月三日「日本国憲法」が発布され翌五月三日より施行となる。二二年四月から日本教育の民主化をねらって六・三・三制の新学制が突施され、新制の弘形村立弘形中学校が上黒岩の久主下りに創設され、相原二三が初代校長に就任する。
 昭和二五年六月、朝鮮動乱が起こり我が国の重工業界もにわかに活気を呈し、二六年の工業生産力は戦前の水準にまで回復した。このころから都会の生活に復帰する者が目立ちはじめた。
 昭和二八年九月「市町村合併促進法」が公布され、この法律の主旨にそい昭和三〇年三月三〇日、明治二二年以来実に六六年間つづいた弘形村を閉村した。