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美川村二十年誌

二、みつまた

 日野浦本組の後藤馬太郎が明治三四年ころみつまた一、〇〇〇本を自宅の周囲に植える。当時の人は牛馬が三椏をむす時の匂をかぐと死んでしまうといっていた。しかし、馬太郎の研究熱はそのようなものに屈するものではなかった。そして牛馬の死なないことを見事に立証し、周囲の人々に栽培を奨励した。これによって三椏栽培がこの地方に普及し、現金収入の大きな産業として昭和二五年ころまで続いた。春先になると、みつまた・こうぞの長く伸びたものを切り、束ねて家に取って帰る。一五束くらいをまた束ねて、大きな釜の上におき、きご(こが、ともいう)をかぶせて蒸し、取り出して皮をはぐ。朝三時ころから蒸しはじめ、だいたい一日に一五釜位は蒸していた。多量に栽培していた人は五日くらいもかかった。現在では栽培面積は減っている。
 馬太郎はみつまたの外にも植林の必要性を説き、自ら雑木山を伐り開いて杉・桧などの植林を行なった。現在山林王国となったのも、馬太郎の研究熱と旺盛な実践力によるものであろうと思われる。
                 (本組、平岡龍号・堀川伊助氏談)