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美川村二十年誌

一、弘形第一尋常高等小学校の沿革

 明治八年八月有枝の本村に校舎を建設、剛名学校と名づけて授業が行なわれた。通学区域は有枝全域と梨ノ下とであって程野に分教場をおいていた。就学する者は二五か六名であったという。同二〇年有枝簡易小学校となり、同二五年一〇月には有枝尋常小学校と改称された。同四二年三月二〇日就学児増加により、大門に校舎を新築した。
 大川村でも、明治八年に宗泉寺を仮校舎として、大川小学校ができ、上黒岩に分校を置いていた。翌年に新校舎が落成した。同二〇年大川簡易小学佼となり、同二五年一〇月には大川尋常小学校と改名された。
 上黒岩分校は、明治一二年四月に独立して独立小学校という校名となり、同二五年一〇月より上黒岩尋常小学校と改称された。同二六年四月までは、民家を借用して授業を行なっていたが、久主ノ下に建設費総額二一一円五五銭で新校舎を造った。就学児二六名、教員は徳田徳次郎で、月俸五円であった。
 明治三二年六月二八日、明神村外一四ヵ村組合立久万高等小学校から分離し、上黒岩小学校の隣接地へ総額一、五〇三円八五銭一厘で弘形高等小学校を設立し、村内五小学校の卒業者が進学して同三三年四月より授業を開始した。校長鈴木政十郎、生徒数六九名で二学級編成であった。
 明治四二年六月、弘形高等小学校と上黒岩尋常小学校が統合して、弘形尋常高等小学校となった。校長大野鼎造、児童数男六一名・女四八名であった。大正八年四月一五日、日野浦に弘形第二尋常高等小学校が設立されたため、弘形第一尋常高等小学校と校名を改称した。
 大正一五年六月一二日、大川・有枝尋常小学校が廃校となり、弘形第一尋常高等小学校に合併された。しかし校舎落成までは、両校で授業が行なわれた。校長山本福一、在学児童数は尋常科三一〇名、高等科四名であった。
 昭和二年四月五日、弘形村梨ノ下に校舎新築落成し、実質統合が行われ、同年八月、家事室及び校長住宅が竣工した。
 昭和一六年四月、国民学校令実施により弘形第一国民学校と改称した。戦後、学制改革により弘形村立弘形第一小学校と改称し、二五年一二月、職員住宅が落成した。
 昭和三〇年三月三〇日、町村合併により美川村立美川西小学校と校名を改称した。

弘形第一尋常高等小学校学級編成沿革

弘形第一尋常高等小学校学級編成沿革