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美川村二十年誌

第二節 郵 便

 通信設備の発展は、その地その国の文化のバロメーターであるともいわれる。
 近代的な郵便制度は、明治三年の郵便規則の制定に始まり、県下では同四年七月に宇和島郵便局が開設されている。その翌年は松山・今治・内子・卯之町と統々県下各地に開設された。
 本村の郵便局は明治一四年一月一日に日野浦郵便局が開設された。
 逓送業務については、松山~久谷~久万~東古味~用居(以下省略)が松山・高知間の沿道局としてその役割りを果していたが、日野浦郵便局開局により、同局は中継陣に加わって業務を遂行してきた。その後明治二五年に国道三三号線の開通により仕七川線の方が支線となっている。
 日野浦にあった郵便局は明治三三年一二月に上黒岩に移転し、三等郵便局として発足した。時の局長は戒旧久延であった。局名も上黒岩郵便局と改称され、面河方面の郵便物の中継もするようになった。
 大正元年八月、弘形郵便局と改称し、業務も現在とほぼ同じ簡易保険・年金恩給の支払い・電話の取扱い等を開始して村民の便宜をはかった。昭和四年二月電話交換を開始、その後、美川村の発足により三一年二月に美川郵便局と改称し、四三年四月に上黒岩御三戸の現在地に新築移転し現在に至っている。
 電灯 山間の一寒村に過ぎなかった本村への電力の導入は一大革命事であった。
 面河川及び隣村柳谷村黒川に発電所が建設され、電力導入の便は良かった。即ち大正一三年一一月に弘形電気会社が中津村に創立され、面河発電所を有する地内にありながら電気の恩恵に浴せないのは遺憾だと当時の伊予鉄電へ申し入れて電気導入に成功した。翌一四年には久万水電が開業し、一五年五月までの半年の間に五七〇燈を点灯したと久万町誌に掲載されている。
 本村における点灯数は記録にないので、はっきりは、わからないが、これを契機として、電灯がともされてきたとわれている。