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美川村二十年誌

第二節 消防団

 上浮穴郡にはじめて消防組が結成されたのは久万町である。それより以前にも消防の組織はあったようであるが、消防組として発足したのは明治四四年四月であった。
 本村においても、翌四五年の久万町の大火に刺激され、大正三年に結成されている。
 当時の組織としては、その長となる者を組頭と称し、初代に伊藤鷹二郎が就任している。
 その下に副組頭一名、部長・小頭・消防手の段階があり、警察の下部組織で任命権は警察署長がもっていた。組員はほとんど無報酬でその任にあたっていた。消防組の仕事としては、火災時の出動はもちろんであるが、風水害・地震等の場合にも出動しよく住民を助け、さらに重大犯人等が逃亡した時の山狩りから家出人の捜査まで警察に協力した。また川流れ人の救助、大雪の日の除雪など任務以外に社会奉仕まで買って出て働いていた。
 装備としては手押ポンプが一台、布製の水桶・梯子・鳶ロ・のこぎり・まさかり・ロープといったものであった。消防手は法被・股引・江戸腹・地下足袋といった扮装で、組頭は指揮刀を持ち、部長までは小型の鳶口を腰に帯していた。この指揮刀に鳶口は昭和一九年の金物供出の時に供出して現在は残っていない。
 昭和一〇年を過ぎたころから軍需景気で、軍需工場へ若人が出て行き、いっぽうでは日華事変の勃発で兵役に服する者も多くなり、人手不足が目立って来た。戦時体制下にはいって昭和一三年からは防空訓練が始まり、警防団誕生まで消防組は続いた。
 昭和一四年四月に弘形村消防組を解散し弘形村警防団が結成された。団長一名・副団長一名・各分団に分団長一名・補佐役として班長一名、班員が四八名ぐらいの編成となった。初代弘形村警防団団長片岡伝、以下二〇〇名の組織であった。
 同年一〇月に国内はすべて戦時体制に切り換えられ、大々的な空の守りを行なうことになった。警防団も軍・警察と緊密な連携のもとに防空訓練を実施し、村民に対して防空思想の普及につとめ、各部落に監視所を設け敵飛行機の来襲に備えた。久万町菊ヵ森にあった監視所へも交替で二名程、行っていた。その間空襲による被害はなく実際に警防団が活動したことはなかった。
 太平洋戦争終末により警防団は解消し、新たに消防団が発足することになった。昭和二二年四月三〇日、勅令第一八五号によって消防団に関する規約が制定公布され、弘形村消防団が結成された。
 以後、昭和三〇年の合併まで弘形村消防団として活躍してきた。