データベース『えひめの記憶』
美川村二十年誌
五、伝承芸能
万才 この地方に万才が始まったのは寛永一二年に松山城主松平定行が伊勢から入国の時に三河国から喜八という太夫を伴なって来たのに起源を持つと伝えられている。
本村には大川万才と藤社万才の二つがある。
大川万才については、明治三〇年父二峰村父野川の万古・作次郎(姓不明)兄弟の指導により、古谷総四郎・藤十郎の兄弟が習ったのが最初である。その後約一〇年ほど続いたが絶えてしまっている。
昭和六年に古谷藤十郎を座長として復活したが、昭和八年にはまた絶えてしまった。
終戦後の昭和二一年、従来のご万才から松山方面にあるような伊予万才に切替えて復活した。
太 夫 太鼓と唄 山崎 春喜(上黒岩)
三味線 市川 柳吉(日野浦古床)
踊り子 (才蔵) 七名
昭和二一年から二三年の間には、郡内を巡業してまわったが、伊予郡松前町五彩座出演を最後として絶えている。
その後、四二年頃から復活したが、昔ほどのにぎやかさは無くなって、唄と太鼓でお座敷芸程度となっている。
現 在 太 夫(太鼓と唄) 上田 常之
三味線 古谷 武敏
踊り子 上田サワ子
松田一代野
養老院慰問 三回
四八年八月二二日の上浮穴郡第二〇回社会教育研究大会に、郷土芸能として美川村代表で実演を行った。
藤社万才についても、ほぼ大川万才と同じような経過をたどってきている。現在九六才になる土居藤吉がこれを伝承し、昔ながらの踊りをロがたりで教えている。四七年に「藤社万才保存会」が結成されて、伝統ある藤社万才を保存すべく努力している。