データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

二、姥神の餅つき

 梨ノ下の石見谷に江戸時代の中頃、山姥が住んでおりました。山姥は、春は草木の芽を、夏は川魚を、秋は木の実を採って生きていましたが、冬の山は食べるものがないので、高山部落に出て正月の餅つきを手伝い、餅をもらって春を待っていました。その頃、高山には七軒の家があって「高山七軒」と呼んでおりました。その七軒の家が正月前、一日一軒ずつ餅をつく日を決めていたのです。山姥は各家を回って餅つきの手伝いをするならわしになっていました。山姥が手伝うと餅は倍にふえ翌年は、無病息災で家業にはげむことができました。しかし山姥の身なりがひどく汚く、その上全身に虱がわいており、餅の上に垢や虱が落ちるのをきらっていました。ある年、山姥の手伝いをさせぬために、餅つきの日割を変更したのです。それとも知らぬ山姥は、例年の通り山を下って来たのですが、すでにどの家の餅つきも終わっていました。失望して山姥は、山の家に帰りましたが、その年の冬は寒さが厳しかったので、寒さと空腹のため、のたれ死をしたのです。
 その天罰のためか、翌年は農作物が枯死し悪疫が相次ぎましたので、高山七軒は大いに困窮したのです。そこでこれは山姥のたたりでないか、ということになり、石見谷の山姥の住んでいたところに祠を建て「姥大明神」として祀り、その霊をなぐさめました。更に謝罪の誓として正月の三日間は餅を絶つ掟をつくったのです。それ以来、平和な昔通りの日々が続いたのです。しかし、年月がたつに従って掟を破る家が出てきました。餅を食わぬ正月は正月らしくない、と七軒のうち六軒までが掟を破ったのです。するとその六軒の家のいずれもが疫病になやまされ、家は絶え、または転地となってしまいました。ただ一軒だけは掟を守り通したのでその家は今なお存続しています。今も石見谷の山姥の住んでいたところを「姥のふところ」と土地の人は呼んでいます。