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美川村二十年誌

一、弓勢の墓

 成の地蔵の右入口に高さ一・五㍍、巾一㍍の自然石に「弓勢の墓」と大書してあり、裏面には明治六年八月二二目と記してあります。この墓石は馬門の押浪竜右衛門(本名渡部好太郎)が四代目弓勢(有枝の山田長松)から五代目を譲られたとき、四代の功績を称えて、自から世話人となり、久万山の力士たちと共に成川から自然石をとり、松山の石工を呼んで建立したものです。また押浪は四代目弓勢が死去した明治二〇年には、有枝の寺橋の近くに弓勢の墓と大書した供養碑を建てたのです。弓勢の由来は、江戸時代の中ごろ、有枝の松岡某という久万山一番の強い力士が、大洲藩主の催す宮相撲で、その力量を認められ、弓勢という印可許・弓矢・座蒲団の三種の品を与えられたそうで、それ以後久万山の大関を弓勢と名乗るようになったのです。
 弓勢は、久万山角力界の大世話役として、絶対の権力を持ち、いかなる相撲でも正面に弓勢が座らなければ、相撲が始まらなかったのです。
 五代目弓勢の押浪竜右衛門は、堂々たる体躯であると同時に人望厚く、十代にして若弓勢を名乗ることを許されていて、不敗でしたが、二〇才を越えると病のため土俵に上れなくなりました。けれども押浪が正面席につくと観衆は、歓声をあげ、力士たちは力の限りを尽くして相撲をとったのです。明治三一年、押浪弓勢の八八才の長寿を祝い、盛大な角力大会が成川橋で催され、土佐・伊予の力士百余人が集って技を競いました。力士たちは、化粧まわしをしめ、角力甚句を歌って押浪弓勢長寿をたたえたのです。その時、弓勢の名と三種の品を稲村の小西岩松に譲る式も行いました。なお七代目弓勢は落出の亀井勝蔵で、八代目は、柳谷村郷角の永井勝に譲られています。