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美川村二十年誌

六、土居 三保太(一八七五~一九五五)

 明治八年三月九日、大川村庄屋土居通昌の三男に生れた。一七歳で弘形村役場書記となり、明治二六年海軍志願兵として呉海兵団に入り、海軍一等兵曹として北清事変に参加している。
 同三七年には日露戦争に従軍し、陸戦隊員として旅順攻撃に加わり、軍人の最高の名誉である功七級金鵄勲章を受けた。
 同三九年収入役となり大正三年に八代村長となった。富国強兵を国策とする時代であったから小学校の式における祝辞はいつも日露戦争の旅順攻撃の実戦談で、児童は目を輝かせて聞いた。
 当時、村民は衛生観念に乏しく毎年のように赤痢、腸チフスなどの伝染病が発生して多数の死者を出した。村内医師に乏しく、交通機関にも恵まれなかった。村長は日野浦、上黒岩に避病舎を建築した。また率先垂範して杉・桧などの植林を行ない、村の産業振興に努力した。
 昭和四年氏神・八柱神社の社司となり、同二三年には村社御三戸神社の社掌を兼務し、三〇年一二月二二日に八〇歳で死去した。長女千恵は真鍋茂喜を婿養子に迎え、現在久万町住安町に住んでいる。