データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

八、元川 鼎造(一八八四~一九六二)

 温泉郡重信町の大野寛平の三男として明治一七年七月一三日に生れ、明治四五年美川村大川の元川登の婿養子となって入籍した。愛媛県師範学校を明治四〇年に卒業し、直瀬小学校に赴任、二年後には上黒岩小学校長。その後上林・畑野川・久万の各尋常高等小学校長を勤め教育の振興に尽力した。温厚・誠実・潔白、いつも微笑を浮べ人を叱ったり他人の陰口を言ったりすることはなかった。しかし、しんの強い性格で理の通らない妥協は絶対しなかった。自主的学習の場をつくり互に協力して学習させたので、教室には活気が満ち意見百出して討論会のようであった。また常に読書を勧め率先垂範した。また近在の青年達とこれからの農家経営・農村のあり方や人間としてあるべき姿などについて深夜まで語りあった。大川・有枝・上黒岩の三枚統合の問題は八ヵ年にわたる懸案であった。彼は大正一四年、村民の強い要請にこたえ、久万尋常高等小学校長を辞任して第一二代の村長となった。そして当時としては新らしい形の弘形第一尋常高等小学校舎を梨ノ下に建築した。現在の美川西小学校が木造建築でありながら五〇年の歳月を経た今日でもなお堅固であるのは学校建築に対する村長の才腕によるものである。
 村長辞任後は村の信用組合長として地域産業発展のため尽し、さらに上浮穴郡の農会長として郡の農業振興に大いに貢献した。終戦後は村教育委員長・民生委員などを勤め、地域住民のよい相談相手として骨身を惜しまず世話をした。昭和三七年六月一六日死去した。元川家は鼎造の孫娘の婿義信が現在、美川南小学校教頭として教育に専念している。