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美川村二十年誌

第一節 藩政時代

 仕七川村は明治二二年の「市制及町村制」の施行によって、翌二三年早々に藩政時代以来の仕出・七鳥・東川の三村を合併して生れた。新村名は三村の名を一字ずつ取って作ったものであるが、これで「しながわ」と読むのは少々無理があるように思われる。
 村の古さを示すものとしては何といっても寺院・神社で、仕七川村には岩屋寺・河崎神社・熊野神社などがあるが、その創建については明らかでない。岩屋寺は弘法大師による弘仁六年(八一五)の創立と伝えられているが、確かな記録はない。現在知られる最も古いものは一遍上人の弟子聖戒が正安元年(一二九九)に書いた「一遍聖絵」で、奇岩怪石の連峰にそばだてる、月は法身常住のすがたをみがき、陰条陽葉の幽洞にしげれる、風は妙理恒説の韻をしらぶ、と山の景色を記し、寺の建立については土佐国の女人がこの巌窟にこもって法華三昧を成就して仙人となったとして、仙人利生のために遺骨をとどめ給ふ一宇の精舎をたてて、万人の良縁を結ばしむ、その所に又一の堂舎あり、高野大師御作の不動尊を安置したてまつる、すなはち大師練行の古跡、というように記してある。この記事は一遍上人が文永一〇年(一二七三)岩屋に参筋したことを記した中に出て来るので、鎌倉時代の末期の、今から七〇〇年前にすでに古いいわれのある寺として書かれているとすれば、余程古い寺にちがいない。河崎神社についても人の住む所、かならず氏神がまつられていたのでその起源は村人の居住と共にあったと思われるが、伝えるように慶雲二年(七〇五)といった確かな記録は何もない。藩政以前については第一章久万山の歴史にゆずりたい。
 藩政時代についても、東川村庄屋梅木家も七鳥村庄屋船田家(仕出村には庄屋は置かれず、七鳥村船田庄屋が兼務していた)も絶えて屋敷の名をとどめた畑が残っているのみである。記録いっさいは失われ東川庄屋の墓石が苔むして残っているが、七鳥村庄屋には改装した墓地しか残されてない。したがって、間接的であるが「久万山手鑑」(大川村庄屋土居家所蔵および、畑野川名智禾之氏所蔵のもの)によって藩政時代の三村の概要を記すことにする。