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美川村二十年誌

二、七鳥村・仕出村

 この二村は庄屋は兼務であり、七鳥村に居住していたので、便宜まとめて記しておく。寛永一六年(一六三九)まで東川村庄屋与右衛門が兼務したことは東川村の条で述べたが、その後は、与右衛門の忰与兵衛が庄屋となっている。与兵衛は恐らく東川村庄屋伝左衛門の弟であろう。これが年代不明であるが、縮川村の庄屋を命ぜられて居村を離れたので、忰の二代与兵衛が庄屋となった。三代与兵衛が元禄元年(一六八八)五月まで勤めて死去し、伜五右衛門が若年のため八月まで畑野川村庄屋三郎右衛門が預り庄屋をつとめ、あと五右衛門が四代与兵衛を名乗って庄屋となった。しかし四代は病身であったので元禄一四年(一七〇一)弟又右衛門が代って五代与兵衛となり享保七年(一七二二)まで勤め、相続人が幼少であったのか九年までは東川村庄屋伝太夫が預りとなっている。享保九年(一七二四)日野浦村庄屋であった船草惣次郎の長男助四郎が七鳥村仕出村の庄屋を命ぜられて居宅を山本地におき、前庄屋には岡田地を与えられた。なお父惣次郎は柳井村庄屋を命ぜられて、その地に移り彦兵衛と名を改めている。助四郎の弟は山越天徳寺の住職となり、書家としても聞えた蔵山和尚である。
 助四郎は久万山の改庄屋を兼ね、紙方御用掛ともなっていたので、寛保元年(一七四一)の久万山一揆事件に連座して一時大味川村預けともなったが、やがて免されて両村庄屋役に復帰した。実子がなかったので末弟長次郎を養子とし二代庄屋とした。助四郎の死は宝暦七年(一七五七)で長次郎の死は同一一年(一七六一)であったので、三代は長次郎の子五平治が幼少で嗣いだ。諱を助四郎は昌敦、二代は昌雄、三代は昌左という。「松山叢談」第十下、瑞龍院殿定国公の条に、松山の文人西村清臣が記した「忠僕源蔵の表文」が載せてある。
 忠僕源蔵は伊予国浮穴郡久万郷七鳥村の庄屋船草五平次が家のつかはれ人なり、父を権左衛門といふ、其母を詳にせず、源蔵ひととなりて心ことにまめやかに、あるじをおもふ事極めて深し、船草昌敦、昌雄、昌左、此みたりの主につかへてその勤をおこたらず、昌雄死せるの日昌左いとけなくて家の業よろずみづからとりみんことあたはず、源蔵これをたすけてひととなるをまてり、
 (下略)
 長文のため、以下は意訳にとどめるが、源蔵は幼主昌左のため寒暑をいとわず農事に励んで身を粉にして働くこと三〇年を越え、近隣の人はその誠実さに打たれたという。天明八年このことが松山藩主定国に聞え、褒美として米を賜わり、また、その徳行は江戸の一一代将軍家斉にまで伝えられた。寛政二年三月一六日死去したが、五平治昌左もこれをねんごろに葬り、墓石にその行状のあらましを刻んで後世に伝えたという。西村清臣はこの文のおわりに、
 としをへてかばねは土と成りぬとも
   くちせぬ名こそ千代に残らめ
の歌を添えている。昭和六年に東京在住の船田寿美雄らの手によって七鳥に庄屋家の墓地が整理せられ、忠僕源蔵の碑が作られた。
 四代嘉藤太は享和二年(一八〇二)に両村の庄屋役を命ぜられ天保五年(一八三四)に死去している。五代源太兵衛は同族の有次郎の四男で養子として入った者である。彼の時代の天保一三年(一八四二)に土佐農民の逃散があって、七月六日にまず名野川郷民一七〇人程が熊野神社に集合したので、源太兵衛は東川村庄屋梅木伝右衛門と共に、この事件の斡旋に努力し、また西光寺住職も協力するのである。土佐の史料によると七鳥村庄屋は船田助十郎とあるので、源太兵衛は後の改名でこのころは助十郎であり、また船田を名乗っている所を見ると船草家が何時の頃からか、船田と苗字を改めたものと思われる。彼の死去は安政五年
(一八五八)のことであった。
 六代船田左源治は最後の庄屋である。幕末から維新にかけて、この混乱期に土佐藩と松山藩の間の斡旋に大いに努力をし、明治四年(一八七一)に死去している。明治五年の「松山領里正鑑」には庄屋家当主の名に、居村七鳥村として両村庄屋船田左源治と記されている。
 
 戸口・牛馬数・年貢率(元禄二年)
○七鳥村
  石高 二八四石四斗四升
   田   六石三斗(四反二畝)
   畑 二七八石一斗四升(三一町二反)
  (但、田畑高はなく久万山手鑑で補う以下同じ)
 家数 一二二軒
 人数 六七七人(男三五九人、女三一八人)
 牛馬 四七疋(馬四〇疋、牛七疋)
内 訳
 本 村
  石高 七四石四斗三升五合
  家数 三四軒
  人数 一六六人(男八四人、女八二人)
 西古味
  石高 六三石二斗一升八合
  家数 二四軒
  人数 一一九人(男六七人、女五二人)
 長 瀬
  石高 八三石二斗八升六合
  家数 三二軒
  人数 一八六人(男九一人、女九五人)
 竹 谷
  石高 三一石八斗九升二合
  家数 一三軒
  人数 七八人(男四六人、女三二人)
 槇之谷
  石高 三一石六斗九合
  家数 一九軒
  人数 一二八人(男七一人、女五七人)
 年貢 元年四割六分、二年四割七分
○仕出村
  石高 一〇〇石一斗三升
   田   七石五斗五升(五反一畝)
   畑  九二石五斗八升(一三町四反三畝)
  家数 四九軒
  人数 二七二人(男一四六人、女一二六人)
  牛馬 三二疋(馬三〇疋、牛二疋)
内 訳
 本 村
  石高 四五石一斗三升七合
  家数 二四軒
  人数 一一六人(男六一人、女五五人)
 筒 城
  石高 五四石九斗九升三合
  家数 二五軒
  人数 一五六人(男八五人、女七一人)
 年貢率 三年四割三分、四年四割三分
○東川村
 (本村欠除、畑野川本久万山手鑑で補う、宝暦一四
  年=一七六四のもの)
  石高 三二二石五斗四升
   田  三五石七斗(二町一反)
   畑 二八六石八斗四升(二七町二反)
  家数 一九七軒
  人数 七八八人(男三九一人、女三九七人)
   但、高山の人数を欠く、
内 訳
 本 村
  石高 六七石二斗九升七合
  家数 四一軒
  人数 一九二人(男一〇一人、女九一人)
 中 村
  石高 一五石七斗二升六合
  家数 一七軒
  人数 八一人(男四二人、女三九人)
 みさうし
  石高 三八石五斗七升五合
  家数 三二軒
  人数 一五〇人(男七三人、女七七人)
 古 味
  石高 (欠)
  家数 五四軒
  人数 二三九人(男一一一人、女一二八人)
 横 山
  石高 九石三斗四升五合
  家数 五軒
  人数 二三人(男一一人、女一二人)
 高 山
  石高 六二石八斗八升五合
  家数 二七軒
  人数 (欠)
 蓑 川
  石高 三一石七斗八升
  家数 二一軒
  人数 一〇三人(男五三人、女五〇人)
 年貢 元禄元年四割八分 二年五割
 各村の負担としては本年貢の外に雑税として小物成というものがあった。山や川から産するもの、たとえば薪・炭・竹・縮藤・漆・塩稍・麻・真綿などの収入に対して課せられるが、その名称については不明のものも多い。明らかな村民の負担として村役に対するものがあるので、左に記しておく。
       仕出村    七鳥村     東川村  
 庄屋給米  四俵    一二俵      一二俵
 小走給米  二俵三斗   七俵二斗八升   七俵二斗
 竹取給米  壱俵       三斗       三斗
 使番給米  壱俵       三斗     (欠)