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美川村二十年誌

四、村民のくらしの側面

 組長の任命 明治時代前期のころの組長は、現在と比較してはるかに重要な地位であった。
 交通・通信機関がまだまだ発達しない時代であり、役場も手うすであったから、おのずから地方分権とならざるを得なかったし、組長に依存するところが、大きかったのも当然である。それだけに、組長の人選は、厳重でなければならなかった。
 組長の選任は、まずその組で互選して当選者を決定し、前組長は投票結果の明細を組全員の連署によって戸長に報告する。戸長は検討の上、当選者に辞令を交付し、新組長は受書を戸長に提出するというしくみであった。
 辞令の一例
                        西 森 留 八
東川村高山組長申付候事
  明治十八年十月二十八日
         上浮穴郡七鳥村外二ヶ村
 その受書
右御受候事
                    上浮穴郡東川村高山組
                        西 森 留 八
  明治十八年十月二十八日
 この辞令の書き方を見ても判るように、役所は、相手を見おろした威圧的な姿勢を持っていた。封建時代の名残で、官尊民卑の風潮が著しかったことがよくわかる。
 印鑑届 今も昔も、印鑑の大切なことには変わりはないが、昔の方が実印のとり扱いは慎重であったようである。昔は人々の経済状態が現在よりもずっと悪かったので、個人間の貸借関係が非常に多かったことは確かである。従って実印を使用する場面も多かった。
 また、貸借の保証人も厳重に責任を持たされていた。いわば実印の責任である。
 印鑑届を提出するのは、新しく実印を作った場合および改印した場合である。改印の原因はほとんどが紛失であるが、紛失届は、めったに出て来ないのである。いわく「破損」、いわく「磨滅」が、改印理由の大部分となっているが、事実ではない。実印を紛失した場合には手続きや取調べがたいへんうるさかったからである。印鑑を大切にするという構えが、公私ともにきびしかったことを物語る話である。
 村民の娯楽 当時の村民の娯楽といえば、浪曲・すもう・人形芝居というところであった。人々はこれらに大きな楽しみを味わっていた。
 ところが、このような娯楽興行にも戸長・郡長の認可が必要であった。明治二二年に出された興行願の一つに、「素人角力の無税興行願」というのがある。
 この願の許可書には、税第一五九号とあるところから、税金に関係があることがわかる。人民大衆のささやかな娯楽に対しても、がっちりと課税していたというわけである。