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美川村二十年誌

三、仕七川橋・滝渡瀬橋の完成

 仕七川村の交通史上で画期的な大事業は、仕七川橋と滝渡瀬橋の完成である。
 モロブチ橋と旧滝渡瀬橋は木橋であり、人馬を通すためのものであったが、これまで出水毎に流失をくり返していた。いっぽう、道路整備も着々と進み、三一年には客馬車が久万へ、大正六年ごろには滝渡瀬まで来ていた。待たれるのは洪水にびくともしない、車の通れる永久橋であった。
 大正一二年五月七日、ついに村民が待ちこがれた滝渡瀬橋(鉄筋コンクリート橋)、仕七川橋(つり橋)が完成した。
 この時初めて、仕七川に自動車がはいってきた。それは黒塗りのハイヤーで、その自動車を見るために、黒山の人だかりができたほどであった。
 この橋の完成によって、両古味を結んでいた懐しい渡し舟は三一年間の長い歴史を閉じることになった。そして大正一五年には、八台もの久万行き定期荷馬車が通うようになった。
 いっぽうバス便は、大正一一年に中央自動車が久万・松山間に定時運転を開始した。滝渡瀬橋、仕七川橋(つり橋)の完成によって、仕七川へも定期バスが通うようになった。
 一三年には中央自動車が西古味の梶原旅館(現在の平和旅館)を終点駅として定時運転を開始した。また愛媛自動車は東古味(現在の団上商店)を終点駅として営業を始め、昭和四年に三共自動車となるまで、客のうばい合いが激しく行なわれた。当時は仕七川始発で東川へ行き、析り返して松山行きとなっており、一日二便あった。バスといっても、五~六人乗りであった。
 貨物輸送では昭和四年に、西古味の人が大型貨物自動車を購入し、輸送面に一大革命をもたらした。しかし荷馬車の往来も多く、昭和二二年ごろまで続いた。
 仕七川村の交通は、このように二大橘の完成によって急速に発達したが、面河村・川瀬村などに通じる道路は全く未改修のままであった。昭和のはじめ西古味の梶原には人を乗せるかごがあり、面河へかごで行く人もあった。
 昭和四年七月、当時の村長新谷善三郎は面河線の道路開設のため、面河村長とともに上京し、有志に寄付を頼んでまわった。しかし寄付は思うように集まらず、資金難は二年ほど続いた。こうした苦労がみのって面河線は昭和四年、村境を越えて開通した。
 川瀬村(現、久万町下直瀬)へは昭和七年に開通した。また中津線は一二年の河崎橋の着工を手始めとして、一五年から二二年にかけて筒城までが開通した。高知県境へは、太平洋戦争下に愛媛・高知の最短線として、勤労奉仕により一八年に開通した。
 このような道路整備によって、本村の交通は急速に発達し、産業の発展に寄与することになった。
 旅客輸送面でも、昭和一九年には伊予鉄がこれまであった三共自動車を吸収合併して、面河線が充実した。また、二五年には岩屋寺経由水押線の運行が開始され、翌年には久万・笠方線も開始された。
 二七年には国鉄バスも松山面河間に定期運行を開始した。二八年には仕七川タクシーが開業し、本村の旅客輸送は飛躍的に発達した。
 現在のように補助金が多くなかった時代に、部落や有志の寄付などによって巨額の費用を集め、このような大事業を行なった英断と努力に頭がさがる。滝渡瀬橋・仕七川橘の二大橋の完成はそれ以後、仕七川村の産業や文化の発展に多大の影響をもたらした。

大正10年ごろの客馬車

大正10年ごろの客馬車