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美川村二十年誌

第二節 食 物

 現在では、主食といえば米を思い起こすが、昭和二五年ごろより以前はそうではなかった。米を主食としていた家は、あまりなかったのである。村内屈指の米づくり農家でもトウモロコシや麦が主食であった。米を使用しても、ほんの少し混ぜるだけであった。米は酒屋その他に売って換金していたのである。
 粉食では小麦、そば、ハッタイ(トウモロコシを煎って粉にしたもの)が主なものである。
 副食物は、この地域で作られる野菜のほかは、自生しているゼンマイ、ワラビ、フキ、イタドリなども多く利用されている。これらは長期間の保存にも耐え、都会への土産物としても珍重されている。魚類は川魚は量も少なく、あまり利用されていない。海の生魚は、めったに食べなかった。平日は干物や塩物。お祭りやお正月にだけ生魚が出された。昭和一〇年代までは、お祭りともなると、松山からきた魚屋が両古味の道に出店を並べ、せり売りの叫び声がこだましていた。生魚を常食とするようになり、松山や高知から自動車で売りに来るようになったのは、昭和二〇年代も後半であった。
 餅は、正月と秋祭りに多く搗かれ、昭和一〇年ごろまでは一俵以上つく家が多かった。これ以外にも、誕生祝い、建築祝い、法事などには必ず搗いていた。太平洋戦争までは新築祝いの「モチマキ」が盛んで、子どもたちの楽しみの一つでもあった。米の餅以外にも、トウモロコシ・アワ・タカキビ・コキビ、それにヨモギを入れるなど、風味あるものも多く搗いていた。これを、四俵も搗く家があったのだから驚く。水餅にして田植えごろまで半年間も保存するなど、よく餅をたべる習慣があった。
 保存食といえば、ハッタイ粉もその一つであった。ハッタイ粉は、積雪時にトウモロコシを煎り、それを石うすでひいて粉にするのである。家によっては一年分をひいて、俵やブリキカンにつめ、天じょう裏などに保存していた。
 お盆・夏祭り・中秋の名月などには、ふつう団子が作られた。これは米や小麦の粉に小豆のアンを入れて蒸したものである。これらは仏事に多く使われた。団子は、カラタチやミョウガの葉につつんで蒸す風習がある。彼岸には必ず、ぼたもちが作られた。
 昭和二〇年代までの子どもたちには、このように四季おりおりのたべものの楽しみがあった。しかし日常の食事は質素なもので、栄養面から見ても、じゅうぶんでない家庭が多かった。

粉ひき(昭和25年ごろまで)

粉ひき(昭和25年ごろまで)