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美川村二十年誌

一〇、河合邦広(一八九〇~一九六八)

 明治二三年七月二一日、槇谷河合勘太郎の長男に生まれる。三七年に仕七川小学校の高等科を卒業し、以来農業に励んでいたが、大正八年に誠実善意の人柄を見込まれて収入役に就任した。槇谷から西古味までの通勤は容易なことではない。毎朝馬に乗って役場へ行き、裏手に繋いで置いて事務を執り、夕方はまた乗って帰る。こうして一一年間おし通した。昭和四・五年の不況時代は税の滞納が多く、いきおい差押え処分をしなければならない。職務とはいえ、この仕事は善意の彼には堪え難いことで、朝は神社参りをして仕事に赴いたという。その後、助役を二期勤めた。東川小学校が建築されて学校に通じる橋をかけた時、校下三部落が和して教育その他を行なうようにとの願いをこめ、乞われるままに「三和橋」と命名したのは彼である。
 終戦後第一回の村長選挙に推されて立候補し、一九代村長の座についた。生来、名利に恬淡な彼にとって村長の職務は好む所ではなかったが、座についた以上は持ち前の誠実さで大いになす所あらんとしたが、家庭事情で止むなく僅か三ヵ月で辞職した。その後松山に出て安らかな生活を続けていたが、四三年四月三日に死去した。七八歳であった。長男武美は松山市鉄砲町で不動産業を行なっている。