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美川村二十年誌

第一節 藩政以前

 藩政以前の中津村については確実な史料が見当らない。第一章久万山の歴史に記した以外に言えぬのであるが、この村には窪田に大寂寺があり、二箆に矢竹の群生があり、その上に赤蔵ヶ池があって源三位頼政にかかわる伝説があるので、まずこの事に触れておく。
 この話を載せた最初の本は「予陽郡郷俚諺集」で松山藩家老奥平貞虎が寛永七年(一七一〇)に領内村々の伝説をまとめたものである。この中に荏原村の新居張屋敷について、
此屋敷は土佐領主源三位頼政、知行居住とも言う、近衛院仁平三年宮中に於て鵺を射、宮女を賜う、又当所にて七百二十町賜う、村数は田窪・津吉・上林・下林等なりという。
とあり、また久万山については
 ○遊ヵ池、二箆村の上にあり、あぞふが池と言う。是は源三位頼政射たる鵺出でし池なり、不審の所に一手箆矢竹生ず。
 ○大釈庵、葛村いま久主村と書く、土佐左近将監位牌有り、一説に土岐大膳太夫位牌有りとも言う。草庵も今は退転し、村老もいわれを知らず。
とある。二六〇年くらい昔に、このような言い伝えがあったものと思われる。また年代不明であるが「予陽古跡俗談」というものに、
 土岐頼政位牌 久主村大寂寺に有り、
 土岐頼任位牌 上畑之川村定禅寺に有り、
  右の来由、今詳かならず、両寺も古跡のよし言え共、さらに委しき事もなし。
 鴨住か池 縮川之内ニツ野に有り
  あぞふが池、今はかたちばかりにて少々水溜り、草など生茂れり、昔此処に怪鳥有けるよし、其外様々に言い伝る事あれども、たしかなる事なし。
 一手矢箆竹 同村に有り
  一手宛節揃ひて生立ゆへ所をも二つ野と言うよし、今は稀にあり。
この話をややくわしくまとめたものに、宮脇通赫の「伊予温故録」(明治二七年発行)がある。これは各郡の名所旧蹟を古老に聞いて記したものと言う。赤蔵ヶ池について原文のまま記しておく。

 鴨住ヶ池
  黒藤川村字ニツ野にあり或は鵺池といふ、又遊か池、阿蔵か池とも書す、此池今は形ばかりにて少し水溜り草生茂りたり、昔此処より怪鳥出し由、其の外さまざまいひ伝ることもあれど、たしかならずと俚諺集に見ゆ、二ッ野は昔源三位頼政が母の隠居せし処なり、頼政の母は寺町加賀守宗綱の女なり、宗綱は伊予親王の子浮穴四郎為世の孫、京都にて任官し加賀守となる、母常に思ふやう、我源家の先は清和天皇の裔にして世々武将となり、其の威権並ふものなし、然るに今や平氏我家の威権を奪ひ源家の一族は日に衰ふ、我が心中これを恨みて止む能はず、都に居て平氏の栄華を見聞かんこと忍ばれずとて、遂に家綱に依り当国に来り此地に移って幽居し、ひそかに源氏の武運を神仏に祈りける、此村に一手つつ揃ひたる竹ありて矢竹となすに宜しき故、世人伐り取りて矢を作れり、よって地名をニツ野といふ、頼政の母自らこの竹を伐り矢を作り京師に送り頼政に告げていふ、射術は武夫の専務たり、これを勉めよと、後ち母病んで危篤なる時に怪鳥来って此池の畔にすむ、其鳥は猿の頭、蛇の尾、虎の爪、鳴声は鵺に似たり、晨旦は来りすみ夜は飛び去る、時に京都にも此鳥あり、二更の後、天皇御寝室の上にて鳴く、天皇頼政を召してこれを射らしむ、仁平三年四月七日夜、母の送りたる矢を以て射たるに一発にして中る、其の夜母も又死せり、これより怪鳥も又此の池畔に来ることなしといふ、

 大寂寺
  久主村字久保田にあり、治承四年四月源三位頼政創建す、頼政氏を土岐と称す、此寺に土岐頼政の位牌ありといふ、
 源三位頼政の怪鳥ぬえ退治の話は「平家物語」や「源平盛衰記」にも出ていて、読みやすく書かれているので有名になった。しかしこの頼政が伊予国に来たことは全くない。いま「続群書類従」によって土岐氏の系図を調べて見ると土岐頼政という人はある。治承三年(一一七九)に出家して頼円といった歌人でもある。この時代から少し下って土岐六郎頼清という人があり、伊予国に六年いたというし、そのころ土岐光定という者もいて出家して興源寺に入ったが、この寺は荏原村にあると記してある。土岐氏は元来美濃国の出であるが、伊予国と関係があったことは事実で、荏原の大宮八幡宮は土岐頼政が建立したと記した本もある。久万山の地は古来、「伊予国浮穴郡荏原之郷熊之庄野尻の里」と言って来たとある(古今見聞録)から花原にいた土岐氏は久万山まで支配地としていたかもしれず、土岐頼政が同時代の人だったので、有名な源三位頼政と混同されたものと思われる。