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美川村二十年誌

一、庄屋の系譜

 伊予史談会所蔵の「久万山手鑑」は元来大川村庄屋土居家所蔵のものの写しで、寛保前後の年代に記されたものと考えられる。内容について見ると享保一八年(一七三三)までが記され、畑野川村に関してだけ延享元年(一七四四)まで書きつがれている。享保一八年当時の本村庄屋は次郎右衛門とあり、日野浦村と中黒岩村と三村を兼ねており居村は日野浦村であったようである。いま庄屋廃止の明治五年(一八七二)の庄屋名を「松山領里正鑑」で見ると船田清平とあって、同じく右三村を兼ねて居村は日野浦村とあるから、一四〇年前の庄屋次郎右衛門はその先祖であろう。
 戦国時代に久万大除城主大野直昌の配下で東明神の船山城主であった船草出羽守の知行所は日野浦・沢波・黒岩村下分であったので主家没落ののち、出羽守の三男新右衛門昌春は日野浦村に退居し、戸田民部少輔支配のとき、居村の庄屋役を命ぜられた。この船草はのち船田と苗字を改めたのであるから、沢渡村の庄屋はこの船田家で一貫したものと考えられる。
   黒藤川村
 前記の「久万山手鑑」で見ると、この村の庄屋は重右衛門とある。大川村土居庄屋家の「諸覚日記」(文化三年)を見ると庄屋十右衛門である。文化三年は一ハ○六年であるから、「久万山手鑑」よりは約七〇年後のものである。重右衛門も十右衛門も実は同じ通称であるから、この間に庄屋家の異動があったとは考えられない。この家柄をたしかめる記録は不足しているが、明治五年の「松山領里正鑑」には当主梅木二三とあるから、重右衛門も恐らく梅木であろう。してみるとこれは久主村庄屋の一族と考えられる。
  久主村
 久主村初代庄屋は入野の天神森城主梅木但馬の子馬之助で、慶長八年(一六〇三)から慶安二年(一六四九)まで勤めている。東川村庄屋を任命され、七鳥村、仕出村を兼ねて寛永一六年(一六三九)まで勤めた与右衛門も久主村から来ておるので、東川村庄屋は最後まで与右衛門の子孫が相ついだ。「久万山手鑑」による享保一八年(一七三三)の頃の久主村庄屋は与次兵衛であり、明治五年の庄屋は梅木盛久とあるから、これもまた藩政時代を通じ、梅木庄屋であったと考えられる。