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美川村二十年誌

一、行政区画の変遷

 明治四年に廃藩置県が行われて、伊予国でもこれまでの八藩がそのまま八県となった。しかしこれでは県の広さも大小さまざまで新政府の統治には不適当であったので、明治五年には重信川を境として、東を石鉄県とし西を神山県として伊予国を二県とした。そしてこれまでの村をまとめて大小区制というものを定めた。石鉄県下は一八大区二一七小区というように分けられたが、藩政時代の松山領久万山は一七大区と呼ばれそれを一七小区に分けている。久主村、黒藤川村を合せて第五小区と呼び、日野浦村、沢渡村を合せて第八小区と呼んだ。
 明治七年に愛媛県が誕生すると久万山は七大区と呼ばれ、中を八小区に分け、沢渡村、黒藤川村、久主村を合せて第五小区と呼んだ。大区には区長、小区には戸長がおかれたが、これらには従来の庄屋が任ぜられる場合が多かった。それにしてもこれまでの支配区域とは、ずれが出来たので戸長と住民との結びつきは弱まった。そのため明治一一年に大小区制は廃止されて、もとの村が復活し戸長役場は久主と黒藤川に置かれたが、一八年からは黒藤川の戸長役場一つにまとめられた。
 明治二一年四月に町村制が公布されて二三年までに新しい町村が出来た。こうして中津村は誕生したのである。戸長および初期の村長は次のようであった。


戸長及び村長

戸長及び村長