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美川村二十年誌

二、戸 口

 藩政時代の沢渡村・久主村・縮川村の戸数人口については「久万山手鑑」によって、享保一八年(一七三三)と推定されるものを前に記したが、その合計は戸数三五〇、人口一、六九二(男八二一、女八七一)であった。
 これが明治五年(一八七二)大小区制の実施のとき戸数三七九、人口一、九七三となっている。一四〇年間にわずかに戸数にして八%増、人口にして一〇・七%増というのは江戸時代後半の人口の横ばい状態という全国的傾向を示すものであろう。明治三五年(一九〇二)となると戸数五三八、人口二、六五四となっている。明治五年に比べて、わずか三〇年で戸数四二%増、人口三五%増という躍進を示している。もっともこの統計そのものの正確度というものも考慮に入れなければならないが、それにしても明治前半期の国運の伸長の一現象と見て誤りあるまい。明治末期の四二年(一九〇九)に戸数五四三、人口二、九四二となり人口はようやく三、〇〇〇台に達しようとしているが、これが四〇年後の昭和二五年(一九五〇)には戸数七〇〇、人口三、九七二で四、〇〇〇台に達しようとするに至った。こうして町村合併を迎えるのであるが、この間の推移を示す戸口の表を上に掲げておく。
 明治時代のものについては乏しい資料をあちこちから集めたもので、大正九年国勢調査以後のように年代が整然と並べられていないのが残念である。

中津村戸口の推移

中津村戸口の推移