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美川村二十年誌

第一節 学校のおいたち

 明治五年八月に学制が発布されたが、本村ではしばらくは従来の寺小屋の教育がつづけられたようである。
 明治八年に久主校、宮成校(黒藤川)が開校し、その後、二箆校、鉢校、沢渡校ができている。沢渡校は沢渡部落から山を越した弘形村の平井におかれ、これまで仕出村の学校に通った児童は平井に通うことになった。
 明治一五年九月一五日に郡内各村の小学校を視察した学務雇金子長斉が桧垣郡長に提出した復命書によると三村関係の学校状況は左記の通りである。
そのころの小学校がどのようであったかを見る一資料として明治一五年一一月に上浮穴郡講習処教員心得宮脇好尊の「久万郷小学巡回日誌」というものを見ると、学校とは名ばかりの不完全なものであったことがわかる。
 十一月四日出立、午前第十一時日浦村光明校へ着、休業セリ、其校前ノ貼出シ二曰夕、例ニヨリ十月十八日ヨリ十一月廿一日迄休業ス云々ト、然ルニ此事タル在庁中米ダ届ヲ見ザレバ或ハ無届ナラント察シ、質サントスレドモ教員ハ松山へ罷帰リ、後二残ルハ机卜塵埃ノミナレバ如何トモスルナク、其上戸長ハ不在、依テ住寺ノ僧二前日ノ模様ヲ探ルニ、過日閉校前マデハニ、三十名ヅツハ出校セリト、斯クテ止ムベキ事ナラネバ夫ヨリ分校へ馳セツケタリ、
 同月同日、同校分校コレマタ休業セリ、依テ仮教員(学務委員ニテ当分教授ス)ニ面接シ委曲質シミレバ、此節丁度農繁ニツキニ週間休校致シタキ段、戸長へ届ケ置キタレバ定メテ書面ノ出テ居ルナラン云々、ソレヨリ本年就学人員調べ或ハ其他、校二面置ベキ諸帳簿等一切整ハズ、且ツ登校生モ少キト聞ケバ、縷々成規ノ旨ヲ諭シ諸科ノ教授方法等ヲ懇説シ置キタリ、
これは例外ではない。他の校も大同小異で指導監督も骨の折れた事であろうと推察される。
 こうした中にあって校舎を新築した久主校は大した意気込みであったと想像される。右の巡回日誌の中から久主校の分を抄録して見よう。
 同月九日、久主村久主校視察、午前第八時出校、当日生徒二十六人、当校ハ新築セシモノナレバ久万山奥ニハ絶無ノ壮観ニテ亜壁玻璃窓清爽拭フガ如シ、併シ其外観ニ比シテハ教師ハ安給ナレドモ、甚ダシク不都合ニモアラズ、サテ教員ノ人トナリモ温順ニシテ可ナリ、然ル処、就学人員百以上モアリテ出校生ノ僅少ナルヲ以テ学務委員ヲ呼出シ精々出校ヲ致サス様督責シ、教員ニハ授業ノ方法、備置諸帳簿ノ件等ヲ諭シ置ク、
とある。白壁にガラス窓の久主校は久万郷では先端を行く異色の校舎であったようであるが、教師の月給五円は当時としても安かったようであるし、校舎に比して就学率は低かった。黒藤川校はもとの名は宮成校であるが、初期は「共分校」と呼んでいたようである。また平井校については、明治一五年記録には、
 仕出学校モ仕出村ト沢渡村ト半季代リテ位置ヲ交換スル由、
と記されているから、半年交代に児童は平井へ、或は仕出へと移動していたのであろうか。
 さて明治四三年九月発行の「上浮穴郡案内」(小川薫水編)に次のようにある。
 沢渡尋常小学校 校長 大窪 傳次、大窪 マチ
 鉢 尋常小学校 校長 岡本 尚宗、岡本カナメ
 久主尋常小学校 校長 高岡 今平、土居 通栄、砲井 カズ
 宮成尋常小学校 校長 安川幸太郎。安川 富子
 沢渡分校がつくられたことについて、沢渡の篠崎雅吉は「系譜の足跡」という手記の中に、祖父佐吉からの聞書きを載せている。その大要は次のようである。
 明治期の沢渡に学校はなかった。子供達は平井にある学校に通っていた。戸数八軒のこの平井は面河川の左岸にあって、当然中津村分であるべきなのに奇妙なことに行政的には対岸の弘形村大字日野浦の一部落となっていた。更に奇妙なのはこの学校名が中津村立沢渡尋常小学校である。校舎校庭はお粗末至極で校舎は民家としか見えない茅屋で、この学校に地元平井と沢渡・二箆の子供が山越えして学んでいた。明治四三年のころ篠崎佐吉は村の学務委員をつとめていたが、現状では二箆の奥の長崎の子供は遠くて通えないし、中津村の学校を他村におくことの矛盾と、不完全な施設設備を解消して沢波と二箆に二校を新設する必要を説いた。これは誰の目にも至極当然なことであったから、中津村としても早速に所要の手続きをとった。しかし県からの認可は、なかなか下りず、視学の実地踏査が行われてようやく中津村の申請どおり平井の学校を解消し、二箆と沢渡に黒藤川小学校の分校を設置することが認可された。
 沢渡分校の開校は明治四五年度の新学期からだった。しかし当時のこと、校舎の建築から机・椅子の一つ一つまで大工が作るので新学期には間に合わず、二、三週間、児童はこれまでの平井に通って、完成するのを待った。この年新分佼への入学生は四名だった。(下略)
 高等小学校ははじめ上浮穴郡内には久万町にしかなかった。これは組合立で中津村もこの組合に属していたが遠くて不便なため、柳谷村と共同で落出高等小学校を設けて、ここに通うことになった。明治四二年に義務教育が延長されて尋常小学校四年が六年となった。高等小学校四年は二年に改められた。この機会に久主尋常小学校に高等科が置かれ、久主尋常高等小学校となった。黒藤川の宮成に高等科が置かれたのは、これよりは遅れる。
 昭和一六年に国民学校と改称したが、戦後の昭和二二年に、久主に久主小学校・久主中学校、鉢に鉢小学校、黒藤川に黒藤川小学校・黒藤川中学校、二箆に二箆小学校、沢渡に沢渡小学校というように校名を改めまた新制中学校が生まれた。さらに昭和三〇年に久主小学校を中津小学校、久主中学校を中津中学校とし、鉢小学校は廃校となった。

三村関係の学校状況

三村関係の学校状況