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美川村二十年誌

第一節 交 通

 道路 明治二三年に、現在の国道三三号線の磯ヶ成から両国橋までの県道が開通するまでの村内の道路は、山腹をまわる里道で、かろうじて牛や馬が通れるくらいのものだった。県道が開通すると定員六人くらいの客馬車や、荷物を運ぶ牛馬車が通うようになった。これもはじめの二輪車から四輪車にかわって行った。
 また昭和一四、五年ごろ二箆に通ずる道路が出来、二六、七年には窪内農道が出来た。
 古くからあるものに土佐街道が二箆山中を尾根伝いに西から東へ通じていた。山中の小道は木の枝のように多いと言われるが、この街道に出る道が幾つもあり、それは仕七川村の蓑川・中村の方へも通じていた。
 橋 面河川を距てた対岸の村との往来のために七ヵ所の渡船場があった。沢渡・平井・馬門(ガヤゼの渡し)、黒藤川(古床の渡し)・落出・鉢(オリトの渡し)・久主(ヒロズナの渡し)がそれである。
 これが橋に替っていったのは大正の末からである。まず沢渡に吊り橋がかかり、同じく大正一一年に落出の吊り橋、大正一四年一一月一四日に中津大橋、昭和になって平井橋、一〇年に落出大橋、二八年一一月一二日に沈下橋が出来て、生活の上に大きな利便を与えるようになった。架橋についても先人の並々ならぬ苦心と努力があった。いま沢渡橋の架橋について、篠崎雅吉の手記「系譜の足跡」を引いてみよう。
 大正中期まで沢渡の裾を洗っている面河川に橋はなかった。渡し場があって一艘の舟が通っていた。昔は水量も豊かで牛や馬も舟に乗せて渡していたが、農林産物の出荷などには不便だったし、大雨が降れば川止めとなって対岸との往来は絶えてしまう。沢渡に住む篠崎佐吉は郡会議員や村の助役などの役職を退いてから、多年考えつつ果さなかった吊り橋をここに架ける夢を実現したいと考えた。彼の手もとには、かつて郡会議員として東北の視察旅行をしたときに入手した吊り橋の設計図があった。
佐吉はできることなら公費で架橋してもらいたいと関係当局に折衝してみた。しかし県道のつなぎにもならない橋を真剣に検討してくれるわけがない。県道からはずれた橘を五十戸たらずの部落のために架けてはくれない。だいいち、見本となる橋はどこにも架かってはいない。自力で架橋にふみ切るしかなかった。
 架橋について佐吉は熱心に近隣の人々に説き、部落総会を開くこと連続六回に及んだ。しかし郡内のどこを歩いてみても佐宮のいう吊り橋などはない。前代未聞の事を起そうというのだから或る程度の時間をかけるのも止むを得なかった。
 けっきよく吊橋をかける事には賛成、しかし工事費の出費はしない、部落としては工事竣工までの労力提供、用材は各自の任意拠出、落成式費用は部落持ち、架線吊線その他資材購入費は佐吉の責任とするという大綱を総会で決議し架橋委員に佐吉を別格とし、阪本友太郎・山内一吉・谷松賀・和泉増衛を選出した。
 工事の技術面は桜木玉之進を中心に、手先の器用な人達が佐吉の示した設計図とその説明を聞いて、工夫を重ね知恵を結集してこの新しい橋の築造と取り組んだ。玉之進は模型の橋を作って工夫を重ねた。そして「これなら出来る」という結論に達した。渡し場は一変して築城工事場のような騒ぎになった。長い杉丸太で櫓が組まれ、人々の「よいとまけ」の掛声がとどろいた。切りロに樹液のにじむ松丸太がどしん、どしんと地底に届けとばかり、幾本とも知れず打ち込まれた。その上へ縦横に松丸太を詰め、橋台石垣の基盤造りをした。土中の生松材は一世紀たっても腐蝕しきることはなかろう。この上に城郭の石垣に劣らぬ橋台石垣を構築した。百数十貢もある大石を太い藤かずらで引きよせ櫓の滑車で吊り、石垣を積み上げていった。太い藤かずらは百余貨の石を吊り上げてもたやすく切れるものではない。この藤かずらを山から採ってくるのは山にくわしい中山初太郎の役目だった。架橋に要する木材の松・欅・栗などの自然木は山で大きくなり放題で、値よく売れる時代ではなかった。佐吉も部落の人もどしどし持ち山から伐り出した。
 佐吉は架線となるワイヤーロープ、その他の資材を大阪へ発注した。支出面に関することはすべて佐吉の責任、佐吉は近郷の有志をたずねては寄附を募ってまわった。このころ二箆奥の深山に既に製材機が入りこんでいた。山間部ではまだ昔ながらの木挽作業だったのに、どこの大企業の出先事業所だったのか、この移動製材機の製品は搬出されぬまま奥山に山の如く積まれていた。沢渡に大きな橋が架けられると知った山奥の製材所は橋板・欄干・橋桁などの用材の寄附に快く応じてくれた。
 橋が竣工するまでに二年を要した。部落民が佐吉に協調し、私欲を捨てて大同団結した成果であった。何十人が何列になって渡ろうと、荷駄が何頭一度に渡ろうと、聊かの不安もない長さ約九〇㍍の吊り橋が出来上った。中間部にいくらかのゆれはあっても、それは吊橘の特性で脆弱性を示すものではない。仁淀川における長吊り橋の嚆矢であった。
 ところが思いもかけぬ一大事が起った。交通取締り権を持つ警察が、事前通告もせずにいきなり通行禁止の繩張りをしてしまった。落成式こそ挙げてないが、既に人々は通行していたので、これには責任者の佐吉も困惑した。佐吉は筋を踏んでむだな時間を費すことをやめて、直接知事の許可を得ようと決心した。郡役所や警察署のある久万町をす通りして松山に出た。そしてかって郡会議員として議席を並べていた久松定夫を尋ねた。久松は田渡村出身で上浮穴郡選出の県会議員だったが、彼に羽織袴を借りて単身県庁に出かけた。時の知事は剛腹と手腕をうたわれた十七代の官選知事若林賚蔵だったが、郡会議員・助役などの経歴ありとはいえ、田舎者の正式な小学校にさえ行ってない佐吉が、ろくろく知事官房に断りもせず直接知事室に乗り込んだというのだから、剛腹というの外はない。佐吉は知事に対する敬語も知らない。ただ架橋を思い立った事情から工事経過思いがけぬ通行止めに困惑している実状からその撤回要請を誠心誠意で訴えた。佐吉の陳述の間、一言も発せずソファーで瞑目したままだった知事は、聞き終ると、やおら姿勢を起して、「よく承りました」と一言だけ言った。佐吉は「よろしくお頼み申します」と深く頭を下げた。その夜、引とめられるまま久松邸に一泊して旧交を温めた佐吉は、翌日の夕暮れに橋に帰りついた。既に通行止めの繩は取り除けられていた。巡査が来てはずして帰ったという。
どれほどこの川に狂奔濁流が押し寄せ、水かさが増そうとも平然たる吊橘が沢渡部落の裾と対岸の県道とを連結した。だが公橋という見地からすれば荷重耐力検査を経なければならなかった。村費を支出しない橋とはいえ、中津村としてもこの段階に至って知らん顔は出来ない。荷重耐力検査はセメントの樽に砂をつめて、検査官の指示する個数だけ橋上に並べるのだった。
 佐吉はこっそりと樽の中に鉋屑をつめて底上げし、その上に砂を入れさせた。「もし中味を調べるという時はこれとこれの樽の砂を出せ」と使役に出た人夫に指示しておくことを忘れなかった。こうして荷重耐力検査も無事にすませることができた。
 こうして初代の沢渡橋は誕生し、村橋に編入された。架橋によって日常生活における利便は計り知れぬものがあった。それは沢渡部落のみにとどまらず、さらに奥の二箆・置俵・長崎の部落まで、人馬の往来はいうに及ぼず、物資の搬出入に多大の便宜をもたらした。まさに大正文明の流入口と言うべきものとなった。
 大正七年の早春に完成した橋の祝賀式はその年の秋に行われた。橋上は万国旗で飾られ、式は橋畔の空地で行われた。来賓には警察署長も郡会議員も村外から来ていたし地元の中津村長亀井要、小学校長ら、沢渡の人々はすべて集り、沢渡分校の児童も整列した。式は「君ヶ代」の斉唱から神官の祝詞に始まった。村長・署長・郡会議員・小学校長の祝辞が次々とつづいた。いま残っている久主尋常高等小学校長長賀部弾丞の見事な筆跡の祝辞を載せて、当時をしのんでみたい。
    祝   辞
 沢渡橋架築工事ヲ竣へ茲二本日ノ吉辰ヲトシテ落成開通式ノ盛典ヲ挙行セラル不肖亦此ノ盛式ノ末席ヲ汚スヲ得シハ最モ光栄トスル所タリ、惟フニ国家発展ノ要素ハ或ハ教育ノ進歩・産業ノ興振・交通機関ノ完備等其他幾多ノ計設ヲ要スルヤ言ヲ待クズト雖モ国家進展ノ基礎ハ人智ノ開発ニアリ、而シテ社会ノ文明ニ適応シ人智ノ啓発ヲ期センニハ夫レ交通機関ノ完備ヲ待ツテ彼此ノ長短ヲ相補ヒ有無相通ズルノ道ヲ講ズルニ非ズンバ之ヲ得ント欲スルモ能ハザルハ児童モ亦能ク了解セル所、然ルニ中津村沢渡ハ四国山脈ノ中軸ニ位スル僻敗ノ一部落ニシテ従来交通ノ便甚ダ薄ク、為ニ蒙ル所ノ損失ノ甚大ナルハ地方人士ノ久シク憂慮七シ所タリ、此ニ於テカ中津村長亀井要氏、篤志家篠崎佐吉氏ヲ始メ諸有志ノ蹶起スル所トナリ幾多ノ障碍ト幾多ノ困危トヲ排シ莫大ノ経費ヲ投ジテ此ノ大工事ヲ竣成セラル其間ニ於ケル委員等々関係者ノ苦心経営ハ徒ラニ余人ノ洞察シ難キ所アルベシト雖モ自今是レガ恩恵ニ浴スル地方人士ノ幸福ヤ惟ヒ半ニ過グルモノアルベキヲ信ズ、亦以テ地方ノ為邦家ノ為慶賀ノ至リニ堪エズ、特ニ本橋ハ類例稀ナル釣橋ニシテ其規模ノ宏大ト其ノ外観ノ美ハ予土街逆ノ一大偉観タルト共ニ亦以テ四国島ノ一名橘タルニ愧ヂザルベシ、聊力蕪辞ヲ述ベテ祝辞二代フ
  大正七年十月二十日
               久主尋常高等小学校長 長賀部弾丞
 来賓の祝辞が終ると、沢渡分校児童は阿部和明教師のオルガンに合せて、阿部教師の作詞作曲になる「沢渡橋頌歌」を斉唱した。
  明神ケ岳聳え立ち 面河の流れ水漬く
  矢を射る如き急流の 岩に激して玉と散る
  世は大正の文明に 流れを一つ隔ては
  一度び雨の降る毎に 行き交う事の不便あり
 頌歌は長く、村人の協力団結と佐吉はじめ役員たちの功績を讃えるものであった。全員が改めて橋の渡り初めに移ったとき、突如日露の役に従軍したラッパ手、森岡好五郎の吹くラッパの音が高らかに響きはじめた。
 なお篠崎雅吉によれば、大正期には上浮穴郡の地理・風俗・名物名所を歌いこんだ数十節にわたる作者不明の歌があったそうである。沢渡橋が出来てから、いつ誰が挿入したか、この郡歌の中に次のような一節が加えられたという。
  二箆矢竹を杖にして 沢渡橋をうち渡り
  頼政公の母君に ゆかりの深き赤蔵ヶ池
というのだそうである。この歌を知っている人が現在いるであろうか。

面河川の橋

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