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美川村二十年誌

三、住 居

 旧中津村といっても範囲も広く、部落によって多少の違いはあるが、急速に都会風にかわってきて、屋根が切妻で、かやぶきという家はめっきり少なくなってきた。
 かやぶき屋根の家は、四〇年ほどたつと屋根のふきかえをせねばならなくなる。ふきかえる時は、部落全員が手伝うのがならわしである。部落の戸数が少ないため、人手が足りないので「ゆい」をして仕事をした。「ゆい」とは、手間がえのことで、次にはお返しに必ず手伝うという約束語である。この村では「いい」と言っている。
 屋根がえには、その他つぎのようなしきたりがある。手伝いに行く人は、わらなわ一束(一束は四〇ひろ。一ひろは両手をひろげた長さ)と、とうきび一升(一・八㍑)を持参し、それで二番茶(午後二時の中食)のふるまいを受けることになっている。
 建物の大きさは、三六(三間と六間)か三間ばり(三間半と七間)がほとんどである。屋根に要するかやの最は約三〇〇〇束で、その内部落の各戸から四しめか五しめずつ出すならわしになっている。一しめとは五尺(一・五㍍)のなわでしばった量をいう。なお、隅の方に使われるかやは短かめのもので、「翼」とよばれた。
 屋根の下地には合掌用の松材一八本、たるき竹(円周約一五㌢)数十本・屋中竹(二二㌢)二〇本・仕元竹(七㌢)三〇〇本・なわ六〇束が使われた。
 かやぶきの家は夏は涼しく、冬は暖かである。座敷は集会所がわりになるので広くとり、中央にはくりやけやきを使った大黒柱がある。大黒柱は守護神と考え、お守り札などが貼られているが、目を見張るような大きな木が使われ、磨きがかけられ大切にあつかわれた。
 茶の間は一㍍四方もある「いろり」が必ず設けられ、暖をとったり、食事の際の団らん休息の場でもある。
 住居に必要な飲料水は井戸はほとんどなく、湧水や流水を使用しているところが多い。
 ふろは住居と切り離して建てられている。戦前(昭和二〇年)までは、糞尿が作物の肥料として使用されていたので、便所と隣合わせにし、洗い場は丸竹を床板のかわりに張り、洗い水が全部便所つぼに流れ込むようになっていた。だから便所つぼは驚くほど大きなものであった。
 便所はふろと同様住居と切り離し、棟を別にしている家が多いが、住居の中につくる場合は、不浄な所と考え、不幸をまねくというので必ず西方につくる風習となっている。
 各家には母屋と隠居があるのがほとんどで、親子のトラブルをさける生活の知恵といえよう。