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美川村二十年誌

三、鉢窪の大蛇退治

 むかし、山中の池に大蛇が住み、旅人や村人をおそうので大へん恐れられていた。その頃、山ひとつへだてた稲村の山中に住む南朝の落武者河野弾正や土居備中守らの勇士がこれを聞き、退治してやろうということになった。
 九州から七名の山伏を迎えてきて、池のまわりで、大蛇を出してほしいと神に祈ると、まもなく波が大きくゆれはじめ、体長五〇㍍もある大蛇が現われた。待ちうけていた弾正らは、いっせいに弓矢を放ち、刀できりつけた。いきおいあまって弾正の兜の鉢がちぎれて池にとんだ。ながい奮戦の後、とうとう大蛇をたおすことができた。
 村人は、大蛇を退治してくれた勇士をいつまでもたたえ、恩に報いるために今の九社神社に兜を宝物として祭り、毎年春と秋の彼岸の中日にお祈りをするようになった。この大蛇退治で、勇士がはなった矢がひと山越えて下の大河に落ちたというので、そこを「矢ぶち」といい、兜の鉢が落ちたところを「鉢窪」と呼び、この地方を「鉢」と名づけられたという。
 土居備中守はその後、鉢に住み村人のためにつくしたので、村人からは氏康様とあがめられてきた。備中守の墓は、上場部落の民家の庭先にある。正面には「備中守義満」、側面には「庚辰二月八日」とある。明治一三年二月八日に再建されたものであろう。
 また、鉢窪は、上場部落から西の方向、小谷をひとつ越えた尾根にあるが、現在はから池である。その沼の中ほどに石を積んだ小さい塚らしきものがみられるが、これが大蛇の墓だという。また「矢ぶち」は落出橋から四〇〇㍍ほど上にあるふちをいう。