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美川村二十年誌

一、梅木二三(一八二八~一八八二)

 文政一一年に黒藤川村の庄屋家に生まれた。父を梅木左衛門という。藩政時代の庄屋は明治四年で廃止になったから、彼は最後の庄屋となった。
 黒藤川は急斜面を利用しての畑作が主であった。裏山が低いために水利が悪く、飲料水にさへ事かくほどであったから水田耕作などは全く出来ない貧しさであった。彼は前川から水路を開いて、水田をおこすことを計画した。そして数年がかりで四㌔余の水路を完成させた。当時の土木技術では、これは非常な難事業であった。水盛の測量とか、夜間に光を利用しての提灯測量とか種々の工夫をしている。石を割るにもダイナマイトはなかった。
 この工事の完成によって各所に水田を開くことが出来て、村民はようやく米を作ることが出来た。彼はまた前川橋の架橋を思い立った。これまでは岩から岩へ丸太を二つ割りにしただけのもので大水のたびに流され、また村人が落ちて死ぬこともあった。何としても恒久の橋にせねばならぬ、と考えて両岸に「見通しの地蔵尊」をまつり、よい橋材を求めて仕事に取りかかったが、不幸にして工事なかばに病に斃れた。虫が耳に入って、これが原因で高熱を発したものと伝える。また私財を投じて工事を興したので一文なしになったといわれる。橋は村人が遺志をついで完成させたが、黒藤川の彼の墓には石碑もなく朽ちた墓標が淋しく立っている。明治五年に始まる戸長役場の七鳥・仕出・東川の三村の二代目戸長に梅木二三がある。恐らくこの黒藤川庄屋と同一人物と思われる。伝記の詳細を知り得ないのが残念である。