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柳谷村誌

第一章 黒川渓の歌碑が象徴る柳谷の自然

 わがやなだにの自然。自らが黙々と創り出したひろばに、やなだにびとはじめ、すべてのものの共在を認め、それらのものとの和やかさを保ちつづけている。その喚びかけには、何一つかざりけもなく、むなしさもない。ただ、すばらしいたたずまいの日々である。しかしわれわれには、それを視止め、それに聴き欲れて、うたいあげる感動のさけびが育たなかった。まことに慣れにあまえきった永い過去であった。
 昭和五六(一九八一)年一一月三日文化の日。落出から国道四四〇号線を西南すること五キロばかり、「シモオオタニ」とよびきたった国道沿いに、「黒川渓歌碑」は除幕された。やなだに郷びらきしてこのかたの、はれやかな日記の一文である。
 歌碑はこう言いきっている。「黒川渓蒼き樹林の底ふかく もののいのちを見せてゆく水」と。われわれやなだにびとの胸に、一すじの清風が吹き抜けて、霧こめたもどかしさは晴れた。歌碑建立の共感をよびあったのである。
 この日に先だつ五四年の夏だったとか。黒川渓の峡を訪ねた在京の歌人逗子八郎(本名井上司朗 ニッポン放送社賓)は、くろかわの流れの音なひにいざなわれ、蒼き樹林の語らひにまな差しして、いのちの共感よびあう旅の一日を楽しんだとか、ときく。