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柳谷村誌

第三章 やなだにの自然の生い立ち

 やなだにの自然は生きている。そして、われわれはじめ、すべて生きもののいのちとの関わりは深い。われわれは、われわれとのかかわり深い、やなだにの自然の生い立ちがたずねたくなる。柳谷の自然は、どんな生活史をもっているのか。それは、気の遠くなるほど古くて、遠くて、大いなることがらであろう。一本すじのようなものではないであろう。どの一点からなどと定めることは、なかなかむつかしいことではある。だが我々が自分の系譜を、今の自分からさかのぼって考えているように、その考え方を流用してみてはどうだろう。
 ただ今の我々に相当する柳谷の自然とは、日ごろ我々がこの眼で捉えている、山なみ・谷すじ・傾斜面が組みあった、彫りものさながらの地塊である。この大いなる地塊は、内に大いなるいのちを秘め、大いなるいのちの営みを、絶間なくみせ続けている生きものと感じさせる。この地塊がいのちの固まりらしく見せ始めた一点を、「自然の誕生日」と定めてみよう。その日、今から凡そ一〇〇〇万年ぐらい前だといわれる。ずいぶん古いできごとなのだ。柳谷の自然の年齢を一応、一〇〇〇万年歳としよう。
 この地塊のいのちは、宇宙と呼ばれる胎内ですばらしい生長活動を積み重ねてきた。この地塊を、ある広がりとある厚さをもった「餅とり板に載せたつきたての餅の塊」と考えてはどうだろう。この「餅とり板に載せたつきたての餅の塊」のような地塊が、一応まとまるまでに、いのちの分身といのちの合身が、くりかえされたであろう。この地塊の生長活動を、生物が細胞分裂してからだができあがるもように類すると、想像してもよいであろう。まず連想できる地層をいのちの要素だと考えると、その二層・三層・数層の地層の分合活動の末、一つの地塊にまとまったとされている。ちょうどむした餅米の一粒一粒がとけ合って、一塊りの餅となったように。そのうち一番深い地層(地塊のいのちの中心とでも言えるもの)と見られるものができていたのは、凡そ二億年も前だろうと言われている。
 それ以来、二億年ほどの胎内(宇宙)での生長活動は、複雑多様であったようだ。それはちょうど、胎児が胎内で育ってゆく複雑さ、微妙さにも類する。海底深いところでできた層が盛り上ったり、地上でながく経過した層が落ち込み沈んでいったり、傾いていったりした。層が重なりあい、もつれあい、ねじれあい、火山活動のようなはげしい力の噴き出しが、くりかえされていった。ものの生成ということは、いかに「ただならぬもの」であることか。学者は、このいのちのできあがるはげしい活動を、「地殼運動」とか、「造山運動」とか名づけている。
 では「柳谷の自然の系譜」を、その古い地殻運動史の記事から覗いて見ることにしよう。
(一) 四〇〇〇万年ほど前―西南日本に中央構造体ができ、西南日本は内帯・外帯に分かれる。わが柳谷の地塊は、外帯系に属することになる。構造線は、木曽・赤石山塊……和歌山紀伊山塊……四国剣山山塊→四国石鎚山山塊→四国佐田岬北縁……九州山塊と走向している。
(二) それから一〇〇〇万年前までの間に四国に、
 (イ) 「みかぶ構造線」と名づけられるものが、中央構造線に略平行(東西方向)にでき、外系の分系が行われた。わが柳谷の地塊は、南の塊(上部古生層)の一角に再分系となる。みかぶ構造線は、美川東川境野→父二峰橋詰→大洲盆地→八幡浜宇和海)と走っている。
 (ロ) わが柳谷地塊内に、略北西から南東に走る断層線ができた。
 ○御三戸→龍宮→奈良籔……鳥形山塊(鉢・洞門にかけての地盤の軟弱さは、断層線との関わりはないだろうか)。
 ○狼が城→横野
 ○小田深山→丸石山→地芳峠。
 ○中津時戸(小松谷川合流点)から予土県境脊梁に沿って→正木が森。
 等々の断層線が走っている。
(三) 四国カルスト準平原のもり上り(隆起)ーこの四国カルスト準平原の隆起は、柳谷地形の個性づけに、大きい意味をもっているのである。

西南日本中央構造帯

西南日本中央構造帯


みかぶ構造線

みかぶ構造線