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柳谷村誌

第三章 農耕以前不定住期(移動的採収生活期)

 地殻運動のうなりを伴ってできた傾動ブロックの一部、これが柳谷の大自然の原塊であった。そしてこの原塊を素材として、気の遠くなるほど永い間、絶え間なく刻みつづけたのが、黒川の流れの褶曲彫りである。わが柳谷人の文化化のいとなみは、彫刻師黒川渓の創作美術品に拠って行われたものである。「天地は大いなるかなや四国山脈もただ一つ褶曲ぞ秋空のもと」歌人逗子八郎大川嶺の頂に立っての、柳谷大自然の讃嘆である。
 わが先人を柳谷の大地に喚び込んだのはなにか。誘った魅力はなにであったのか。なにが先人の欲求に応えようとしたのか。それは柳谷の天地の美しさにはぐくまれたゆたかさだろうと思われる。
 雲流れる空、風唸る峰々、霧駈ける稜線、そして褶曲深く刻まれ、靄濃くこめる渓々。黒川のいとなみの綾は、まことに巧みである。こうして仕上げた素彫りの地肌に、自然は更に、彩りのわざを重ねていった。
 光と熱と水分が織りなすこの地肌に、いのちたちはそれぞれに棲み場を定める。四季の移り変るたたずまいに、自ら活きてゆく自らの運命をつかんだのは、夏は緑に映え、秋冬落葉する樹々たち(ブナ・コナラ・クリ・ケヤキ・ナラ・カシワ・アベマキなど)と、笹属(クマザサ・チマキザサ・ネマガリダケ等)である。笹属は樹下共生したり、高地に離れて茂ったりした。夏緑落葉樹も、シイなどの常緑照葉樹や、モミ・ツガ・スギ・ヒノキ・マツなどの針葉樹と混生して、美の精彩を加えていたのである。こうしてわが柳谷の大自然は、夏緑落葉樹を主とした、春花・夏緑・秋紅・冬雪の移ろいに、それらの間に点在する嶂壁と、カルストの伏石との調和を保って、巨いなる庭園の粧いを現わしているのである。光と色の織りなすこの庭園はまた、歳々絶ゆることなくつくり出される食餌の一大楽園でもあった。動物たちが食餌を探し出す能力はすばらしい。小動物をはじめ鳥獣たちも亦、彼らの棲場とし、彼らの渡り場として、彼らの種の繁栄をこの楽土に求める。峰高く渓深くして、山・谷が作り出す地肌の広さが、彼らの棲場と食餌のゆたかさを伴って、彼らの魅力を駆り立てたにちがいなかったと思われる。主なくして創り出されたこの大自然。まことに無垢で無疵である。何びとの仕業をも受けず、なんら人工のきず趾ももっていない。ことばどおりの自然そのもの。それは文明以前、いや広い意味の文化以前とも言うべきものであろう。
 光と水と沃土のゆたかさが、夏緑落葉樹林の繁茂をつくりだし、やがてそれは、動物たちとの共生へ移ってゆく。そこに充ち溢れた大自然の美のゆたかさが、我々先人の魅力をかき立てずにはおかないはずである。この魅力のかき立ては、ただ自然の美しさに対する感懐というものだけではなくて、もっともっと激しいものであったに違いない。先人たちをゆさぶったものは、おのがいのちの持統と、わが種の繁栄を願う最も根本の願いであっただろう。自分の内胚(五臓六腑)を充たすことの衝動は、なにものにも増して強烈なものである。その強烈な衝動に応え得られるものは、大自然からのおのずからなる供与のゆたかさ以外には考えられないのである。
 霧駈ける峰々を越え、靄濃き中に刳る音さやかに黒川のとどろきを耳にしながら、谷々を渡って来て、この大地にはじめての足跡をつけたわが先人は、為すなくして与えられる大自然の贈りもののゆたかさに、驚嘆したのではないだろうか。すでに火をつくることに成功している先人たちは、手足の労苦にとってくれるであろう道具をつくることに、智恵を研ぐようになっていたであろう。母たちは野蔓を結び合わせ、木の葉を敷いた入籠を抱えており、父たちは、棒の先に石斧をくっつけた鋓と、弓矢とを提げている。母たちは地面に叢生した草・茸・菜などを、また樹の枝からぶら下った熟実をもぎ取って入籠に詰めていく。父たちは矢を放ったり、やりを投げたり突いたりして、野鳥やけだものを捕えるのに懸命だった。そして樹林にさす夕陽のかげが傾くころ、父母たちは今日の得(獲)物を背負い担ぎ抱えるなどして、今朝来た蜂谷を、枝折りつけた道しるべを頼りに、岩陰のわが家をさして帰っていくのであった。宵闇迫る岩陰の棲家には、親待つこどもたちとの、夕餉の団らんが待っていたであろう。こうしてあくる日もまた、新しい豊かさを求めてのくらしが、一家の者たちのいのちの永らえを約束しているのであった。しかしこうした先人たちの、柳谷の大自然とのかかわり合いは、与えられるものを、全く初歩の技術によって取得するという程度のものにすぎない。母たちの労作は、山野に自生している食用植物(とちの実・栖の実はじめ、葛根・百合根・わらび根・へッポ草の根・カジ瓜根・烏瓜根などデンプン質草根、ウド・ワラビ・ゼンマイ・アザミ・ミヅ・シトゲ・ウルヒ等季節副食物などの葉茎)を採収することであり、父たちの狩労作は、野棲鳥獣の捕殺という、限られたもの、与えられたものについてのかかわり方にすぎなかった。
 このような受け身のくらしの中においても、昼夜寒暑の変わりや、四季の移ろいなど、大自然のめぐりについて、一種の畏敬の念のようなものが湧いて来なかっただろうか。その念いが、太陽を仰ぐ信仰儀礼のような所作を、習慣づけるに至ってはいなかっただろうか。
 先人の新しい生活様式への前進は、これまでの自然の供与だけによる、受け身の態度から、なんらかの能動的行動に、転換するチャンスによってもたらされる。その転換とは、なんらかの新しい技術の発見、新しい社会つくり、新しい信仰への目ざめ、新しい言語思考力前進を伴うところのものであった。
 ここに、無垢で、無疵の大自然に向かって、我々人類による、改造めいた行為が試みられることになるのである。