データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

第二節 村びらき―村の歴史のおこり―黒川文化のめばえ

 柳谷のあけぼの

 村の歴史の初声、黒川文化の胚芽は、入り来った某氏によって、柳谷の大地の一角に、種つぼが掘られ、最初の種一粒が落され、土が覆われた瞬間にはじまる。某氏は誰だったか。時はいつだったか。明らかにすることはできないが、大まかに推論できる手がかりはある。手がかりとは。その一つは、村社の建立。つぎは官道の変遷。いま一つは、予土の国ざかいに庶民が踏み開いた山道の息づきである。村社はむらの中心のひろばで、郷びとのいのちを支える心臓であり、官道、それにつづく街道、山道は、郷びとをひろばへ結ぶみちであって、郷びとのいのちを永らえる血管であった。

 村社の建立

 社伝によると、わが村の村社の建立は、つぎのように伝えられる。 イ 中津大宮八幡神社 推古帝四年(五九六年三月四日―今から一四一六年前)時の国造伊予主命によって、伊予土佐両国国境高峰に、国土鎮護のため建立。 口 柳井川本村早虎大明神々社 同じく推古帝四年(五九六年一〇月)あるいは神亀五年(七二八年―今から一二五六年前)五殼豊饒の農耕神として建立。 ハ 柳井川休場河内神社大宝元年(七〇一年九月―今から一二八三年前)五殼豊饒の農耕神として建立。 ニ 柳井川高地総高地神社 同じく大宝元年あるいは弘仁五年(八一四年―今から一一七〇年前)土地守護の産土神として建立。 ホ 西谷郷角五社八幡神社 延久三年(一〇七一年―今から九一三年前)源頼義・越智宿弥親経が鎌倉八幡を勧請して建立。古くから産土神として尊崇、河野氏の寄進を受ける。 へ 西谷古味川崎神社 仁平三年(一一五三年―今から八三一年前)源頼政心願して建立。

 官道の変遷

 わが国は農耕期に入ってから、統一国家としてのしくみが出来上った。そして都が畿内に定められていたから、地方を鎮護するためには、都と地方府(国府)を繋ぐ道筋は、官道として統制されていた。隣国土佐の国府は、今の御免町にあり、ここと都を繋ぐ官道は、つぎのような変遷史を遺している。
イ 南予迂回土佐官道 はじめ四国山脈越えの難を避け、都―紀伊―淡路―阿波―伊予瀬戸内海岸南下―土佐幡多路迂回―国府後免
口 久万官道 その後、この一番遠い廻り道は止められ、斉明帝六六一年(今から一三二三年前)久万官道が新設された。先の南予廻り道の途中、伊予道後から三坂峠を越え、久万―馬角―藤川―久栖―吾川を経て佐川ー国府とを結んだ。
ハ 阿波官道 養老二年(七一八年―今から一二六六年前)阿波―甲浦―野根山関所―国府の阿波土佐直通も認められた。
ニ 伊予土佐最短官道 延暦六年(七九七年―今から一一八七年)阿波官道を止め、川之江―馬立―立川―国府後免の伊予最短官道となる。

 民間山道の開通

 庶民が踏み開いた山道は、文化・経済・信仰などの交流する真に活きた血路である。畿内に都があり、瀬戸内文化が咲き香る事情から、「伊予は先進国だ。」と土佐の人々は言いつづけ、伊予との交流活動は、幕藩期までも意欲的に続いていたように見える。延喜一三年(九一三年三月四日―今から一〇七一年前)津野郷(今の高知県高岡郡梼原町・東津野村・葉山村など)の開郷者津野経高の入郷と、その子孫の豪族化がきっかけで、伊予の豪族河野氏との特殊な主従関係が続いたので、わが柳谷がその通路の役割を担ってきたのである。五段高原から西、韮が峠に至る四国カルストには、数条の民間山道が生き永らえ、今日の山村構造改善諸事業が、先人が踏み開けた民間山道のコース沿って施工され、今や地芳越えが、瀬戸内・太平洋の主幹国道四四〇
号線に、その様相を一変しようとしている。「道は自然なり。」の詩人のことばに感深いものを覚え、「ああわが柳谷の夜明けは晴れていた。」と北叟笑みたい。
 高知県高岡郡『檮原町史』のプロローグに次のように書いてある。
 経高土佐入国の延喜時代………はるか西方高岡郡と伊予との国境には、伊予の三大文化地帯より押しよせた、カオリ高い文化の波がひたひたと押しよせて、まばゆいほどの鮮やかな光を放っていた。………奈良朝時代すでにサンゼンたる光を放っていた伊予文化を梼原地帯に引き入れ、いち早く土佐に文化のうるほいを与えた人、それは梼原の開祖津野経高である。経高は伊予文化を巧みに導入して、………。と。王朝のころ、既に土佐津野郷と伊予瀬戸内を結んだ文化交流線上に、わが村を位置づけているのである。
 石鎚天狗岳(一九八二メートル)から雨包山(一一一二メートル)へ南西に、わが村を膝に抱いたように山稜が続く。土佐吾川郡・高岡郡と、伊予上浮穴郡・東宇和郡の境である。この山稜地塊に略直交するかのように、数条の断層線が迫っている。仁淀川は、御三戸から断層線に沿って、中津山から大川嶺への稜線を断って南下、支流黒川を合わせ、構造線に平行して東流する。支流黒川は深山断層線等に沿って南下、山稜主線の走向に準じて北東流して仁淀川に合流しているのである。
 伊予の奥地であったわが村、土佐の奥地であった津野郷、共に一一〇〇から一五〇〇メートルの山稜で背を合わせた孤立境・閉鎖地域であった。この不利な宿命を切り拓かせたものは、文化化を目指す両郷民の強い意欲であろう。封建期のあのきびしい政治禁圧にもめげず、これらの断層線に沿って、一一〇〇から一五〇〇メートルに及ぶ山稜地塊を越える幾筋もの山道を踏み開き続けてきたのであった。