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柳谷村誌

第一節 新しい社会構造の出現

わが伊予の国においては、河野氏の衰滅(天正一五年ー一五八七)を転機として、分権的封建社会は崩壊した。その後、統一封建社会ができあがるまでには、約四半世紀を要した。わが伊予は、一国八藩の成立によって、藩の仕組を完成した。
 わが村を領内とする松山藩は、文禄四(一五九五)年に加藤嘉明が知行せられて成立し、わが村は、慶長二(一五九七)年藩公嘉明から、明神清右衛門維帷房が、柳井川村の初代村庄屋を仰せ付けられることによって、名実共に統一封建社会の一翼となった。続いて慶長八(一六〇三)年梅木馬之助(初代梅木但馬の孫)が久栖村初代村庄屋を、寛永一八(一六四一)年明神新兵衛(明神清右衛門の伜)が西谷村初代村庄屋を、それぞれ仰せ付けられている。この村庄屋中心の村役人体制は、以後明治四(一八一一)年に至るまで、約二六〇年に及んでそれぞれ続き、統一された社会の仕組は、緩みなく見事に存続したのである。