データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

(一) 前期 通産化(工業化)社会期 明治四(一八七一)年~昭和二〇(一九四五)年まで

半封建的社会 

 幕府(藩主)と百姓、のしくみで幕藩を守り続けてきた封建社会。その圧政から解き放たれて今自由社会が整った。その間永い時日を要した。半封建的社会の経過もまた止むを得ない足どりであった。
 自由社会の国民が育つには、国民一人一人の意識を磨かねばならない。国民の九〇パーセントを占める農民は、みんな無学文盲で、意識は低い。国民の意識の土台づくりが急がれる。国民教育の基礎づくりに半世紀はかかるであろう。永い鎖国の暗室ぐらしで、国民は文盲で音痴である。この国民に対して、西欧文明は烈しい刺戟を浴びせてくる。この子を連れて、国際社会とどうおつき合いするか。明治新政府の悩みの深さはわかる気がする。国際社会との対等外交は、国力の背景があってできることであった。防衛のしくみ・産業・経済・技術の切り替え・国の財政の強化・国民の政治意識の育成等々。「せねばならぬ。」が山積していた。しかし、急いで失敗したら国は自滅するのである。選択はむつかしかった。明治新政府がとった近代化政策は、その選びかた・進めかたの適正さを誤らなかった。切替えられるしくみに、半ば封建的制度のなごりが残されたのは、新しい形に移ってゆく道筋において、避けられなかった事々であろう。
(1) 村民の参政権行使における半封建制(詳細は政治編参照)旧憲法第一九条に、「公務就任について能力の平等」を規定している。ただし華族(旧武士層)には、一般人以上の特権が与えられ、皇族・女子・帰化人その他の日本人でないものは、例外にされている。(イ)国政参加 明治二二(一八八九)年の旧憲法発布までは、軍部と官僚を中軸とする行政のしくみ、旧憲法発布から昭和二〇(一九四五)年までは、法律を基準として官僚を中心とする政治のしくみであった。衆議院議員選挙は、制限選挙で、村内ではその制限の条件に適った数名に選挙権があった。(ロ)県政参加 知事は官選知事。地方長官の令名で、中央政府から内務官僚が派遣されていた。県会議員の選挙も制限選挙で、村民のうち一部の者にだけ選挙権があった。(ハ)村政参加 村長は十数名の村会議員が代選する。村会議員は、区域別に区域内の成人男子が選挙し、村会の議長は村長が執行した。
(2) 国民皆兵 いのちあるものはすべて、自分を守ることに真剣である。国家という生きものもまた、その例外でない。後進国の弱さを自覚している日本は、どんな防衛手段を選んだか。選んだのは「国民皆兵」という最強力手段であった。満二〇歳に達した日本人男子はみな、兵役の義務を背負わされた。国防の第一線に立つ軍人とならねばならないのである。徴兵検査を受けて、それぞれの力に応じた兵種を定められ、一定期間軍隊に入営して訓練を受ける。一定の訓練を終えた者は、その後召集されて、国防の第一線に出陣の義務を課せられるのである。明治六(一八七三)年徴兵令が出され、明治二二(一八八九)年旧憲法に、国民三大義務(兵役・納税・教育)の筆頭義務として規定された。その節、農民・旧士族などは、徴兵令反対運動もしたが奏功せず、徴兵からのがれようとする行為はすべて、厳罰をもって処断させるきびしいものであった。やがて、兵役に従事する社会情勢が進むにつれて、兵役義務を果たすことは、国民最高の栄誉であるという国民感情が芽生え、社会に熟成していって、国民意識の最上のものに純化されていったのである。なお、この兵役義務の施行にも、若干の兵役免除の特例はあった。役人である者・役人となるための修学中のもの・兵役免除税二七〇円を納めた者などがそれである。このころから欧米人は、近代化に遅れている日本人を評して「好戦民族」「軍事大国日本」と毒づいてきた。
 日本の封建期の足どりには、そのように感じさせるものがないとは言えない。けれどもこの批難は、欧米人が自己の行動をすなおに内省することなく、その正当性を主張したがる近代人の陥る過ちであろう。「平和と戦争」という相矛盾した二つの考え方を、一つに統一しようとして苦悩することは、人類進化の道筋で犯した、「千慮の一失」がもたらす宿命と見るべきであろう。
 この期の日本としては、近代国際社会への仲間入りに後れたあせりもあったであろう。環境諸条件の不備を切り開こうとする考えもあろう。今まで蓄えてきた精神的エネルギーの燃えあがりもあったであろう。日本が選択した数度の戦争参加は、生あるものが成長進化を急ぐあまり、思い浅くして犯した過ちと内省してはどうであろうか。
 理由はいずれにしろ、悔みても解決できないものは、戦争の犠牲である。数度の戦争参加で、近親が死傷なされた方々にとって、解消しきれない悲劇であり、永久に尽きない痛恨事である。ここに村民一同は、永久平和の熱願のもと、意をつくし得ないことばをもって、英霊のご冥福を祈り、御遺族のご愁傷をお慰め申しあげる次第である。

 土地税制 

 明治新政諸改革の中心は、土地制度を根本的に改革することであった。封建制から近代国家体制へ転換するためには、財政の基礎が確立されなければならない。当時のわが国としては、財源の主軸に、前農本制の延長として地租を置くほかに途はなかった。明治五(一八七二)年の人口三四八〇万人の国民担税能力は、専ら土地利用(耕作主体)の稼ぎに求める段階である。だから明治新政当初において、土地の所有並びに課税制度確立が、取急がれる課題であった。
(1) 地租改正の準備段階 明治三(一八七〇)年六月、神田孝平の田租改革建議。同年七月、畑方石高を金納に統一。翌明治四(一八七一)年五月、田方石高の金納を許す。その翌明治五(一八七二)年二月、封建期の農民保有地(高持)にそれぞれ地券を交付して、その「私的所有」を認める。併せて今後は、「土地永代売買」を認める。
(2) 地租条例発布。明治六(一八七三)年七月、地租改正条例発布。課税標準は地価。税率は地価(法定)の三パーセントの定率。収納物件は金納とした。地租はその後、地価の修正と税率変更を見たが、制度の大本は動かなかった。昭和六(一九三一)年に至って、現実地価と法定地価とのへだたりによる不合理を無くすため、課税標準を「地価」から「賃貸価格」に改正した。
(3) この地租改正がもつ意義。封建期は、土地をつなぎにして、領主(藩主)と領民(百姓)は共同体であった。今期は地租改正法によって、土地は農民個人の「所有権の対象」となり、「資本化」した。そして資本主義社会体制が育つめばえとなり、土地を個人が持つことは、やがて「地主層」が生まれる素因をつくるに至った。ここで地主と小作者の純所得を比較してみる。この条例と同時に発布された「地方官心得書」でみると、田地一反歩収穫米一石六斗(四俵)、その小作米一石八升八合の代金(石三円として)三円二六銭四厘、地主側控除は、地租(地価四〇円八〇銭の三パーセント一円二二銭四厘)、村費四○銭八厘、合計一円六三銭二厘で、残金三円二六銭四厘也である。つぎに小作者側、小作米支払後残量一円五三銭六厘、控除は種籾肥料代七二銭、後残金八一銭六厘である。両者の純所得比二対一となる。封建領主と農奴・農民の関係に較べて、この期の地主・小作者の関係は、両者の間に表面は、両者の自由な考えに基づく契約ができているとは言いながら、土地を所有する者の資格と、土地を耕作する者の資格の間には、著しい優劣のあることは、この土地税制が生み出した、半ば封建的なくみたてと見るべきであろう。
(4) 税収に占める地租の比率 明治一五(一八八二)年六四パーセント、明治二〇(一八八七)年六三パーセント、明治二五(一八九二)年五五パーセント、明治三〇(一八九七)年三六パーセント、この年酒税四ニパーセントで、地租を追い抜く。明治三五(一九〇二)年二八パーセント酒税五五パーセント、明治四〇(一九〇七)年三〇パーセント酒税四パーセント、明治四五(一九一二)年二五パーセント酒税四八パーセント。
(5) 土地税制の変遷 明治六(一八七三)年発布の地租は、本税は国税として国庫に収入された。しかしこの税制には、更に地方税として、諸種の附加税が重徴されている。府県税として地租附加税、市町村税としての地租割などである。わが村の「地租割」の跡を見よう。各年の記載順は(イ)年度、(ロ)地租割額、(ハ)対年度村費比率の順である。

 明治二二(一八八九)、地租額の六パーセントで三九円七二銭五厘、五〇パーセント。明治二三(一八九〇)、地租割の一四・三パーセントで九四円六七銭九厘、九パーセント。明治二四(一八九一)、九四円六七銭九厘、九・一パーセント。明治二五(一八九二)、九三円五九銭三厘、九七パーセント。明治二六(一八九三)、九三円九二銭四厘、九・ニパーセント。明治三四(一九〇一)、地租額の一五パーセントの九〇円三五銭九厘、二・九パーセント。明治三五 (一九〇二)、九四円八七銭九厘、三・六パーセント。明治三六 (一九〇三)、一二七円、四・五パーセント。明治四〇(一九〇七)、一八三円六八銭、五・六パーセント。

 なお昭和六(一九三一)年に、課税標準を地価(法定)から賃貸価格に改正。また国税の税目中、地租を酒税が追い越したのに対して、地租を地方税に移せの要望が起り、この動きに応じて、昭和二二(一九四七)年地租を都道府県に移譲した。更に昭和二五(一九五〇)年七月三一日新地方税法が成立、地租は税目を「固定資産税」と改め、市町村独立税となる。同時に、地方税目中の附加税制度は全面廃止された。ほんとうに永い永い土地税制の苦慮の足どりである。

 農山漁村民の低所得 

 ○農民分解 先進諸国との友好関係が遅れたこと、そして後進国として国交上のいろいろの差別扱いに悩んだわが国は、この不利益から脱け出そうとあせった。軍事力すなわち国力と軽信した。国策の中心に強兵策がとられたのである。農民が納めた地租を主要財源とした国家財政は、主力を軍需面に運用した(軍事費 明治三三年国家総予算額の四五・七パーセント。昭和五年二八・六パーセント)。したがって、極く僅少の通貨が、農山漁村に環流して、われらの生活を潤おしていたのである。働くことだけに生きがいをとらえていた山村農民にとっては、ぜにの顔を見るのは一年中で盆と正月だけ。山村の算用は年二回だけ。どこのうちにも借銭がある。夜昼休まず働いて作った品物は、久万・松山の商人に買いたたかれる。村うちの数軒のうちにはぜにが蓄えてあるが、村うちはぜにの大ひでりであった。村うちのぜに持ちから、月二歩で借りてくる。返すのは盆・節期二回の区切りだから、返せにゃその月はダブって一年一四か月。借銭は雪だるま式に利太りする。山村の百姓は、ぜに貸しと借銭もちに分かれはじめる。明治新政のおかげでやっとわが物となった土地は、借銭するとき抵当入りしているから、元元払わんとなりゃ、否応なしにぜに貸しのうちのものとなる。そこで農村は、土地を所有していて作らん大地主と、土地を持たんで作る小作とに分解した。前の封建期の惣百姓仲間は、同じ土地をはさんで、所有権資格者と耕作権資格者と、立ち向かう立場となった。この変貌、土地に関する社会的役割分担の変化と見るべきであろう。第一次農業恐慌の大あらしが吹き初めた昭和四(一九二九)年九月一日現在、わが村の小作率はつぎのとおりであった。旧柳谷村 全耕地面積七六七町歩 小作率四五パーセント。旧中津村 全耕作面積六九二町歩 小作率三五パーセント。
 「ぜにがないので正月ができん。」こんな低所得農民社会に生れたのが「頼母子講」である。一見山村金融の救世主のようだが、講仲間間の利不利のへだたりは大きい。太るものは太る一方、細るものは細りきって身代限り(破産とも売り払いとも言う)する。一軒つぶれると、「受け判捺いた者」が芋蔓式につぶれてゆく。今日の「会社更生法」のような救済制度はどこにもない。倒れたうちを再興させようと、また頼母子がはじまる。これまた共倒れの基起しであった。組内・村内のほとんどが、その金主さま(総代・債権者)に田畑の所有権を譲渡して、自分たちは耕作権を保持することに転換する。この大きな転換のうねりは、社会のしくみがもたらした社会構成員が分担する社会的役割の切替と見るべきであろう。
 ○農業恐慌の嵐 村内で生産した農産物の殆んどを、貢租と自家消費に充てていた封建期には、不作・凶作は直ぐに供給不足を招いて、飢饉という社会混乱をひき起こした。しかし今期に入っては、農産物は商品化され、国の内外を通じて、流通市場に循環することになった。すなわち資本主義体制下の法則性の支配を受けて、循環流通の安定と変動をあらわすのである。したがって農産物の需給異常などが、農産物価格の下落を招いて、農家の家計に大打撃を与える事態が起こってくる。これを農業恐慌と呼んでいる。今期に入って最も大きい影響を及ぼしたものは、昭和四(一九二九)~同八(一九三三)年の世界農業恐慌であった。アメリカにおける大規模な農業恐慌が大もととなって、関係諸国はその影響をもろに受け、わが村の農家にとっても、すべての農産物価格が大暴落した。そのため農家の担税力は落ち、村の財政は、支出緊縮を余儀なくされ、村吏員・村内教員の給与八分減俸を行った。
 ○柳井川村勤倹組合の結成 さきの農本的封建社会期の後半、わが村の百姓は、藩主(ご太守さま=久松家)→お代官→大庄屋→村庄屋から、「節倹と出精」のきびしいお触れ・お沙汰をいただきつづけた。「使うな稼げ」のきびしい鞭であった。しかし今、自由社会期に入っているとは言え、さきに述べたような低所得の実情では、否応なしに倹約―勤勉の途を選ばねばならなかった。明治二〇(一八八七)年、柳井川村の全村民が村民大会を開いて、「柳井川村勤倹組合」を結成し、「規約」を決議、二一六戸の世帯主全員署名捺印して、その履行を誓約している。つぎにその規約を詳記する。

  柳井川村勤倹組合申合規約
  第一条 此勤倹申合規約ハ来ル明治廿二年十二月三十一日迄各自之ヲ確守スべキモノトス
  第二条 葬儀仏祭等ノ節ハ酒肴ヲ侑メ又ハ其饗応ヲ受クベカラズ。
  第三条 旅行之節見立或ハ迎エト唱シ宴会等ヲナシ又ハ餞別土産等取遣リヲナスベカラズ。
  第四条 年齢五十年以下ノ者ニハ絹布ノ上衣又ハ絹張傘、表付下駄ヲ用ウベカラズ。但シ帯襟類及羽織ノ裏地ハ絹布ヲ用ヒ上衣ニ糸入縞ヲ用ウルハ勿論妨ゲナシ。
  第五条 クシ・カンザシ・コウガイ及髪飾・指輸・キセル又ハキセル入レ・カイチュウ等ノ飾リニモ金銀其他価高キ物品ヲ用ウベカラズ。
  第六条 芝居其他諸ニギヤカ等ノ節ハ酒肴又ハ飲食物ノ取遣リスベカラズ。
  第七条 婚儀年賀ヲ除ク外祭日祝日等ノ節ハ親セキノ外ハ来往スベカラズ。
  第八条 婚儀・年賀・祝日・祭日等其他客ヲ招キ饗応ヲ要スル時トイエドモ下物五鉢以内トシ質素ヲ旨トスベシ。
  第九条 無用ノ宴会ヲ為シ又芸妓ヲ宴席ニ侍セシムル等ノ事アルベカラズ。
  第一〇条 朝ハ必ズ早ク起キ夜ハ晩ク寐ネテ家業ヲ出精シ相互ノ怠慢ヲ戒ムベシ。
  第一一条 平生万事ニ倹約ヲナシ銘々非常予備ノ為メニ金銭ヲ貯エ之ヲ駅停局へ預ケ入ルル事ヲ努ムベシ。但シ本文預込金額ハ本人ノ適宜タルベシ。
  第一二条 乞食無頼ノ徒ニハ勿論接待或ハ善言ト唱シ他人ニ金銭物品ヲ与エ又ハ止宿セシムルコトナスベカラズ。
  第一三条 飲食物卜雖モタワムレニカケ事ヲナスベカラズ。

 近代化施策(国民教育) 

 社会が近代化するには、物は豊かに、力は強くならねばならぬ。ではその要望はどうしてかなえられるか。答はひとつ。人をつくれば、物は豊かに力は強くなってゆく。近代化の土台に「人つくりを据えたわが国は賢明である。成程わが国は、一民族一言語の国である。永い封建期に求心性・集中性の性情は養われたであろう。それにしても驚かされることがある。明治五(一八七二)年に学制が頒布され、それに基づいて義務教育が始められた。ところが明治三七(一九六二)年の本県統計では、就学率九四パーセント、出席率八五パーセントとなっている。すばらしい進みぶりである。この発展にはそれなりの理由があろう。無学である親たちが、せめてわが子だけには……と懸命になるのはそれは当然。けれどもわが国の行財政の熱の入れように驚くのである。明治二三(一八九〇)年一〇月三〇日教育勅語が出て国民教育の方針が明示された。同年柳井川・西谷両村合併して、柳谷村が誕生した。初代村長土居通誠提案の新予算が、新村会で審議議決された。予算総額一〇五一円五五銭二厘、うちに占める教育費予算四一七円七一銭(三九・七パーセント)である。それから町村制に基づく二二年間の行政経験を経た明治四五(一九一二)年、予算総額七四一五円三七銭、うちに教育費予算三三一六円五五銭二厘(四四・五パーセント)である。これらの数字は経常費である。校地の購入や整地、校舎の新・改・増築ともなれば、村民は膨大な村債を背負い込むことになる。ただに財政面ばかりでない。教員養成面では、師範学校は授業料免除、教員に人材を確保する特別措置としては、兵役法に短期現役制(師範出の教員は兵役入隊五か月に短縮)があり、恩給法には、加算特典(小学校・国民学校勤務者の恩給は、勤続一七年以降の年限に対し一五〇分の一加算する)などがとられていた。以上のいくつかのことから推察されるのは、国を挙げての国民教育普及努力が、わが国の近代社会化のあらゆる面に、予想を上廻る国力の集積となった事実を裏づけている。

 予土横断道路 

 近代化社会は、従来からの農耕活動に、新しく工業化活動が加わり、両活動がつくり出す物と人が、商取引(流通面)の流れに乗って環流して成長する。孤島四国また、この規則性の例外ではない。瀬戸内のひろばと四国南帯を結ぶみちすじに、わが村は位置する。したがって古い期以来、その期その期にふさわしい道筋のはたらきを果たしてきた。官道といい、街道といい、それぞれの期待に応える役割を担ってきたのである。
 この期に入って、瀬戸内沿線の新道は、早々に整備された。しかし四国山脈に阻まれた四国横断新道の開さく実現には、時日と努力の積み重ねが必要であった。この横断新道について、その構想と実現にかけた官民の努力の跡を尋ねる。
 明治一七(一八八四)年。このころ讃岐・伊予合わせて愛媛県であった。同県三野豊田郡役所勧業係大久保諶之丞構想の「四国新道―今の三二・三三号線を合わせたいわゆるV字線案」と、上浮穴郡長桧垣伸の構想した「予土横断道路―今の三三号線案」とが、ほとんど同時に行政を動かす導火線となる。○愛媛県令関新平・高知県令田辺良顕会談によって、予土横断道路事業着工を約定。○六月二八日両県令連署で工事予定額五四万円の半額国庫補助を内務卿に申請。○内務卿から折返し、工事具体案整備方指令を受く。○予土横断道路構想を、V字案に拡大、徳島県令酒井明の協力方のはたらきかけが奏功し、三県連合の四国新道構想計画として動きはじめる。○明治一八年七月二〇日三県県令連署「四国新道開さく費御補助之儀ニ付稟申」上申書提出。工事費概算八七万四一四三円九四銭八厘也。○九月八日 四国新道開さく認可。○一一月一三日 第一五回愛媛県臨時県会に一八年度支出金審議提案。

 (第一次会)原案同意採用演説五名………国の一本化・物産興起のため。原案廃棄主張演説六名……民間の窮状・租税負担増のため。議長小林信近―議員として原案同意採用演説「ソモソモ此工事ハ三県ニ跨ルモノナリ。故ニ克ク四国ノ地形ヲ見テ而ル後工事ヲ起スカ必要ナルヤ否ヤヲ判断セザルベカラズ………四国ノ地ハ孰レモ山谷多キ故ニ其山間ニ埋没スル処ノ物産ハ四国ノ幅員ニ比スレバ実ニ其レ非常二多キ………本県ノ人民モコノ不便ノタメニ興スベキ産物ヲ興サズ開クベキノ物産ヲ開カザル者オビタダシカラン………今吾川郡産物ナリ久万山辺リノ薪炭ナリ如何二海運ノ便アリトスルモ、ソノ海岸へ川ス通路ナシ、故二山間ノ薪炭材木等運搬ノ不便ナルガタメ之ヲ伐採スルトモ、出入相償ワナキコトアリ。如何ニモ今日ハ、人民衰退ヲ極メ居ルニハ相違ナシ。併シ乍ラ今日ノ事態タル決シテ百事退守ヲ主トスベキノ場合二非ズ。随分進取スベキノ事物モ頻繁ナリ。教育ナリ、土木ナリ、世ノ中二必要ナル者沢山アリ。故ニタトヒ民間ノ疲弊ナリトテモ其ノ疲弊ヲ挽回スル策ヲ講セズシテ、空シク手ヲ束ネ俟ツベキ時ニアラズ………。」同意採用、廃棄主張激論二日に及び、表決の結果過半数一票超過で第一次会原案採用承認。続いて二次会、三次会辛うじて承認。

○新道開さく計画 伊予の分旧街道一七里一八町を一五里に短縮。工事区六区。重信橋のほか、久万川架橋四(落合・河口・久主下・落出)。明治一九年六月着工して明治二二年度完工予定。人夫労働時間一〇時間、三〇分休息三回、賃金月給九円以内、帽子・法衣支給。○起工式 明治一九ー四ー七讃岐金刀比羅宮内で行う。県令関新平式辞「其れ繁栄を図らんと欲せば、其策少なからずと雖も、四国に在りては、道路を開通し運輸を便にするに如くはなし。茲に於て三県相謀の、四州を貫通するの大道路を開さくするに至る。この工事たるや、一挙にして百益生じ、独りただに三県民の幸福のみならんや。」則ち本邦の鴻益と言わざるを得んや。○工事遅延(三坂ー久万間軟泥)延期の止むなきに至り、三年延長、明治二五年完工。○落出大橋架設中止、渡船に変更。明治二二年一二月県会に減額諮問原案承認ー大正一〇年落出吊橋竣功まで、三〇年間渡船期となる。○街村落出誕生して発展する。予土横断道路が、松山から三坂峠までの区間竣工したのが明治二〇年、このころ、久主から梅木音吉が落出に移り構居、豆腐屋を始めた。これが落出の誕生である。やがて三坂峠~県境の工事が始まると、かねてから風早から行商に来ていた松田久吉は、土工達の炊事を引受けてこの地に定住した。松田旅館のおこりで、西谷・柳井川の生産物と、同地区住民の生活物資を一手に取扱う、下坂随一の大問屋「まつだ」として大繁昌した。道路完工の二五(一八九二)年ころには、大三嶋から来ていたでん大工の手になる街村の原型は建揃っていた。その後大正一〇(一九二一)年落出吊橋が架かる迄三〇年間渡船場として、節目(中継地)の役割をつとめる集落性は育っていった。村の各集落と結ぶ里道(落出と川前、落出と大窪谷、落出と立野、落出と稲村等々)も次々に開通し、村のあらゆる活動体の拠点が、次々なだれ式にみな集結、傾斜三〇度もある立地条件を乗り越えて、戸数・人口は殖えつづけて来、そして殖え続けてゆく。種が大地に落ちて、芽が雄々しく出るー街村落出のもつ個性は、やがて国道四四○号線の改装と共に、北は村境から龍宮まで川をはさんで東町・西町のたたずまいとなる日に明示されるであろう。
○「新道開さくに関して地元から費用寄附」の記録を追記する。

 ○新道開サク費用寄附之義ニ付願
  土予間新道開サクニ付テハ右費用之内エ当村中ヨリ人夫ヲ以テ右ノ
  通り寄附仕度候尤モ各自寄附願ハ不日取纒メ差出候得共先差当り惣
  代ノ名義ヲ以テ此段奉願候也
     明治十八年十月五日  上浮穴郡柳井川村惣代 鈴木 貞衛
                           鶴井源五郎
                           松岡貞四郎
                        戸長 足利 純太
     愛媛県令関新平殿

  一、人夫弐干弐百五拾人
 上浮穴郡柳井川村ヨリ寄附高 尤明治十八年度ヨリ仝廿二年度迄五ヶ
 年間二出夫ノ積リ前書願出之趣相違無之依而奥書致進達候也
  明治十八年十月十日 上浮穴郡長 桧垣  伸
 書面願之趣聞届候事
  但現夫ノ義ハ指揮次第可差出義卜可心得事
  明治十八年十一月廿日 愛媛県令 関  新平 印
 新道開サク費ノ内へ当村ヨリ人夫ヲ以テ寄附ノ義曩二出願ノ上御許可
 相成居候処不日出夫ヲ御命令相成候趣二付最早農繁二際シ一同出夫ス
 ルニ至テハ忽チ事業ノ障害ト相成候間右出夫ヲ金二換工之ヲ三分シ期
 限ヲ以テ上納仕候様御許可相成度此段奉願候也
  一金三百三十七円五拾銭
   内人夫弐千弐百五拾人 壱人二付拾五銭
 金百拾弐円五拾銭 明治廿二年五月三十一日限上納
 金百拾弐円五拾銭 同年九月三十日限上納
 金百拾弐円五拾銭 同年十二月廿五日限上納
   明治廿二年四月十日  上浮穴郡柳井川村総代 松岡貞四郎 印
                         鈴木 貞衛 印
                         梅井 友次 印
                         藤田 松次 印
                         中村源太郎 印
                         平野 辻松 印
                         中村 忠蔵 印
                         鶴崎儀太郎 印
    上浮穴郡長 桧垣  伸殿         樋口吉次郎 印
 上第二七号 願之趣聴許ス
    明治廿二年四月廿日   上浮穴郡長  桧垣  伸 印
○紀念之瀧 昭和二(一九二七)年五月二五日発行『中津の光』によれば記念の瀧は大字久主字大谷 県道の近くにあり。高さ五丈余の瀑布にして壮厳を極む。県道土佐街道開さくの際 時の知事関新平氏之を賞して紀念之瀧と命名せられ、又村内有志も開通を祝福するため、此瀧及び附近の土地を関氏に贈り之を紀念とせり。雨後紀念之瀧と称するに至り、明治二十九年小牧知事は故関知事の同郷佐野常民伯爵に紀念之瀧の題碑を求め其の由来を刻し………(以下不詳)とある。
  碑文
   故愛媛県知事関新平在任日 偶議開四国新道 貫通四国為一大土
   工 其自高知達松山 中間経久万山険道通 行旅商販大趣其利便 
   久万之士喜君斯挙 胥課擇秘泉幽道之地 一区献之旅君以為游息
   之所未幾君以病卒 今已十餘年矣有志過其徳弗哀建石其地以 供
   紀念請君同郷佐野伯爵顕碑西字又嘱余記其事余風美君政績又嘉有
   志厚誼因叙其梗概如此
 明治二十九年九月 愛媛県知事 小牧昌業識