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柳谷村誌

第五節 野村・柳谷境界紛争

 昭和三七年六月二二日、愛媛県桑山三郎土木部長が、野村町方面経由で、本郡を視察されることとなった。当時の村長政木茂十郎は、助役高橋強ほか関係職員を従えて、久万土木事務所長一行らとともに、中久保を経て大野ヶ原に出迎えた。高原の夏は、酪農がさかんで、開拓がどんどんすすめられていた。その中には、我が村の行政区域が、含まれていたので、村境がちょっと話題になった。行政区域を管理する者にとって、当然のことであったかも知れない。しかし、ここ大野ヶ原は、国有地を開拓者に売渡したもので、所有権の関係がなく、したがって境界についても、確認する機会が少ないところであった。その後村では、村議会協議会においても話題となり、境界を確認することになって、地元中久保の人たちを雇って、理事者と総務委員で現地踏査を行ったりした。
 そのころ県農地拓植課では、開拓者へ所有権を移転するための保存登記について、行政区域の確認が必要となり、両町村へ国土地理院発行五万分の一の地形図による境界線を示して、その確認を求めた。我が村では、何ら相違ないことを回答していた。ところが、昭和三八年に至り、開拓地の伐採に伴う木材引取税課税のための実績通知を、松山営林署は大きく変更減額してきた。野村町より、境界未定の申入れによるものだという。
 その年一〇月一八日、農地拓植課は両町村を県庁へ呼んで双方の事情を聞くことになった。村からは村長、助役、議長松本古市が出席した。当日の会合では、五万分の一の地形図のとおりであると、主張する当村と、営林署担当区界、あるいは陸軍演習用地区界の標柱、つまり丸石山から姫ヶ渕、カサ撫を経て、三ツ石を結ぶ線だと言い張る野村町によって、ものわかれとなり境界論争が展開されたのである。
 村長政木茂十郎は慎重な態度をもって、我が行政区域の管理について、相手方の主張を排除するため、古来からの経過について充分なる研究調査を重ね、これに対処するよう助役に特命した。これによって、直ちに村の主張を取纒めるところとなった。

  境界論争における我が村の主張
  一、国土地理院発行五万分の一地形図による境界線が正当である。
  二、国土地理院発行の地形図は、町村界を表示する場合、必ず両町村の確認をとって、決定することに規定されている。当該境界線について、明治三七年初版の地図では、北部約三分の一程度が描入れされていたが、県境の紛争解決後、昭和八年修正測図にて、前記規定に基づき確定されている。野村町においては、その後も昭和二一年五月二日、昭和三五年一〇月一三日、昭和三六年五月二三日の三回にわたり、当村が主張する地図上の境界線を確認しており、昭和八年確定以来三〇年間、何ら異議なく行政区域が確立されていたもので、法規上の諸要件は完備しており、この線を動かすことはできない。
  三、明治四三年発行の修正地形図には、野村町主張の線に、町村界と類似の表示があるが、これは旧陸軍の演習用地の区界であり、この線が営林局における国有林管理上の担当区界でもあって、町村界と何等関係ないことは明らかである。
  四、松山営林署の立木処分実績通知、管内図等にみられるように町村界でないことを立証している。
  五、登録関係については、松山地方法務局美川出張所の土地台帳に屋敷山官有地一二四町八反歩として、登録されており、高知営林局の併用林台帳についても、屋敷山官林一二四町八反歩として登録されているが、国有林野地籍台帳によれば四九町二反一九歩に訂正されている。これは営林局が担当区界をもって、屋敷山と小屋山とにして取扱うことにしたためで、当村が主張する屋敷山全部をさすものではない。当該地周辺のほとんどが実測面積の二倍から三倍が通例であることからしても、該土地は屋敷山であって、不突合ではなく当村区域外のものとすれば、区域内に屋敷山に該当する土地は、ほかに発見できなく屋敷山であることは極めて明確である。
  六、野村町の主張する、丸石山―姫ヶ渕―カサ撫―三ッ石を結ぶ線は、現地の状況からみて丸石山を除いては目標が明確でなく、予想の地点を結んでも山々の中腹を走るなど町村会としては極めて不適当である。

 双方の主張相反するところにて、両町村同志による解決はその見込みなく、地方自治法第九条の規定による知事の調停を受けるよう、双方ともに両県事務所に申請するところとなった。
 昭和三九年五月二七日、県は松山、八幡浜両県事務所長をはじめ総務課長、町村係長、並に両町村の関係者で現地踏査を実施した。もうこの時は、村長近澤房男が就任し紛争の引継を受けていた。
 この踏査によって、双方主張線のその差、面積は約二〇〇ヘクタールと推定された。双方の主張を立証するため、両県事務所と両町村によって一〇月一三、一四日の二日間にわたり、高知営林局並に高松市の国土地理院四国地方測量部を訪問することになった。松山県事務所から、尾海安正総務課長、若松喜敏町村係長、我が村からは退職していた高橋前助役に事件精通者として依頼するとともに、総務課長稲田幸雄が参加した。
 高知営林局、国土地理院測量部においては、双方ともに、経過等の説明を受ける中において、その主張を有利に導かんと、質問を重ねたが結局、境界線の決定は両町村において行うほかはないようであった。
 しかしながら、高知営林局においては、国有林野評価官の説明を受けたが、掛水智評価官は久万町の出身で、かつては落出担当区主任として、村の実状をよく知られ、また旧知であったことは幸であった。
 その後、県事務所によってたびたび協議されたけれども、その主張は平行線をたどり、解決は見出せなかった。
 昭和四三年に至り、双方県の調停に一任の意向を示し、九月九日、一〇日にわたって、岩瀬地方課長と両県事務所長、両町村による現地踏査が行われ、近澤村長、稲田総務課長、地元長谷夏国議員が参加した。
 踏査を終って、現地大野が原の高原宿舎に宿泊し、夜を徹して懇談協議を行ったが、双方頑として変ることがなかった。
 県も一任を受けたものの、地方課長の転任によるなど、またもならず、それから四、五年もすぎてしまった。
 昭和四八年に至って、県は保存登記を急ぐことになり、また両町村においても、このまま延引することは、あらゆる行政面に不都合を生ずるところとなり、早期解決が必要となった。村長は、県の調停を受諾することについて、村議会協議会をもって説明し、止むを得ぬことを認め、六月二八日確認書に調印して、昭和三七年以来一〇年に及んだ野村町との境界紛争は、解決を見るに至った。

                   確  認  書
 柳谷村と野村町(以下「関係町村」という。)は、別紙図面に示す、町村の紛争地に関する境界について、次のとおり確認するものとする。
 一、両町村の境界線は、別紙の航空写真に示すとおりとする。
 二、関係町村は、今後この問題については、いっさい争いを起さないものとする。
 三、この境界線の確定に伴い、関係町村において行う紛争地にかかる土地の表示の変更手続について、関係町村は異議をはさまないものとする。
 四、伊予銀行県庁支店に関係町村の名義をもって預金している、紛争地にかかる木材引取税の配分については、上記境界線の決定に伴い、円満に解決するものとする。
 上記の事項が解決されたことを証するため、確認書の正本二通を作成し、関係町村がそれぞれ一通を所持するとともに、松山県事務所長および八幡浜県事務所長が、確認書の写しをそれぞれ所持するものとする。
   昭和四十八年六月二十八日
               柳 谷 村 長  近澤 房男 印
               野 村 町 長  池田 忠幸 印
              立 会 人
               柳谷村議会議長  竹本 俊夫 印
               野村町議会議長  武田 好秋 印

 この境界線によって、村の面積一二六・七九平方キロは、一二六・一〇平方キロとなり、〇・六八平方キロ減少した。
 昭和元禄の成長の道すじは、はてしなくつづく平坦な道ではない。頂上に至る坂道であった。今峠に登りついた。道しるべは、「心の生活のゆたかさへ」と矢印する。
 われわれ村民の欲求は、消費の欲求から蓄積の欲求へ、物質的欲求から精神的欲求へ、個人的欲求から社会的欲求へと、大きく転換しようとする。わが村政府は、この村民の欲求動向に正しく対応して、今後の行政行動の道標を確立する。