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柳谷村誌

第一節 耕地

 焼畑つくり 

 村の地肌とのかかわりが、住みつきに始った。ひとびとの体内に、「耕種」というすばらしい新しい力が熟してゆく。この力が、なにかのはずみにはじけて、自然の持前に素直にしたがう「採取活動」から、自然へ働きかける「耕種活動」へ跳躍した。人類の勇気ある決断と試みは、大いなる危険をはらんでいる行為であった。先輩生物である植物が積み重ねる体験を、じっと見つめて悟った人類の知恵であろう。しかし人類が試みた「耕種」という労作は、自然の地肌改作を試みる一種の反自然行為である。耕種労作の成果の上に、初志に反するものが現われるのは、やむを得ないところであろう。
 耕種活動は、地肌への直接を必要とする。そのため「耕地開拓行動」からはじまる。自然があらわしている樹木・草叢・蘚苔は切除せねばならぬ。これが焼畑つくりである。「伐材」と「山焼き」活動である。山焼きは、地表の雑物を焼き払って、有機肥料つくりを併せて目ざしている。山焼き以前の枯落葉腐植に因る有機肥料に準じた、短期の有機肥料づくりである。こうして耕地化した畑地は、有機肥分が存続している限り耕作し、無肥料状態となれば、休閑地として草木の叢生による地力の恢復に委ねる。したがって、焼畑地域つくりの可能性は、広大な雑木山・草山を前提とし、おのずから耕作可能の傾斜地の多い山村地域に限られる。だからわが四国山地の交通地位の低い山村が、全国屈指の焼畑地域となったのである。その中にあって、往年全国筆頭の局納ミツマタ生産地(局納額一〇〇九トン余)として高名を馳せ、今日その跡地が一大植林地域を形成している。
 焼畑地域としてスタートしたわが村が、先きにミツマタの最盛期の繁栄を喜び合い、今後は、大径木供給地としての期待に自信を持ち、その育成にいそしむ植林山村としての面目は、広大な地肌―肥沃な傾斜地を保有することに基づいているのである。

 切替畑の運営 

 昭和二五(一九五〇)年の世界農業センサスによると、四国四県中の焼畑農家率―七〇パーセント以上の町村は六か町村(愛媛―柳谷村、高知―大川村・本川村・池川村・吾川村・梼原町)で、わが村における焼畑面積分布は全村全集落平均一〇町歩以上五〇町歩未満である。中久保五〇町歩以上。わが村における焼畑経営規模別集落分布(農家一戸当たり)、五〇町歩以上―中久保、一町歩以上―名荷、五反以上一町未満―高野・猪伏・中畑・小村・本谷・郷角・高地 三反歩以上五反歩未満―赤土、一反歩以上三反歩未満―小黒川・松木・稲村・鉢・休場、一反歩以下―立野・大窪谷・奈良藪である。
 焼畑・切持畑の名称区別は厳密ではない。火焼きによって生成した区域を、農林的に利用してゆく対象域であるから、類似同一と見てもよいのではないだろうか。ただその土地利用の目的によって、火焼きの季節を異にする区別はある。わが村における焼畑形成が、ほとんどミツマタ作付の前作としての面白い型があるから、春焼き方式と言ってよい。そしてその後の、ミツマタから植林への転換には、生産季節はなんらの関連をも及ぼしていないのである。四国山村地域における焼畑(切替畑)の中核区域をなしたわが村の切替畑の発展の跡を見る。わが村の切替畑利用方式は、普通作物型のうち、秋伐り春焼きのとうもろこし型が主であった。春四~五月植付けのとうもろこしが主作で、間作として大小豆が配された作付である。主作と間作が同時に植付け収穫され、翌春の作付までは休耕する一毛作である。その間の裏作としての麦作は、集落周辺の常畑を利用した。換金作物としての茶・楮・苧麻なども、常畑化する切替畑をほとんど利用した。中秋における農家作業は、昼間はとうもろこしのとり込み、夕飯後は家族全員で夜半までとうきび剥ぎ、翌朝早く背がいに組み、庭先の稲架かけが続けられた。それから木枯しをすぎ、雪が降る年の末まで、黒ずんだ茅屋根と赤いとうきび稲架との配色が、仁淀川流域の焼畑山村特有の、秋から冬へかけての美景を点綴していた。ここで唐黍主作の切替畑経営に併行した、茶と楮の作付経営に触れる。庄屋制のころから、久万山は茶と楮の適地であった。明治七年版の竹内信英の『茶園閑話』によると、「久万山を始めとして、深山幽谷の茶樹は、固有のもの半ばなるべし……。久万山は無慮茶なり。而して園をなさず……。」とある。しかし明治以降、朝きり、水はけよい砂礫土、朝日受けの傾斜地など、好条件が揃っている適地久万山には、培養茶園が発達した。明治一六(一九八三)年の上浮穴郡調在報告書によると、切替畑二八〇町三反に占める培養茶園九四町三反、その茶産額二五万斤とある。また昭和二〇(一九五〇)年から昭和三〇(一九六〇)年までにおける茶の主要生産地として、上浮穴郡の茶生産戸数八八四戸、うちわが村一七四戸(二〇パーセント)、茶園反別四二町七反うちわが村五町七反(一三パーセント)となっている。
 つぎに楮の作付について触れる。楮は今日、ミツマタ期にその座を奪われて以後、畑のはしやぎし等にその余命をとどめているが、庄屋制のころは培養作物として幅をきかしていた。当時は郡の会所を通じて、苗木の斡旋まで受けており、剥ぎ皮は強制供出制だったようだ。買上げられた楮皮原料は、再び生産地の紙すき百姓に配給されていた。紙すき百姓は、割付けられた製紙生産額の完遂を強いられている。久主村は主要漉山村として、久万山判紙の大生産村の名を馳せていたようだ。当時名庄屋と称えられた久主村新太郎(梅木新太郎)は、久万山判紙割付皆済とあって、特別褒賞米五俵の表彰にあずかっている。久主村の製紙技術は、かねてから、土佐伊野方面から導入されたものである。
 ミツマタ期に至るまでの焼畑山村の生活風景の一端を叙した、明治一三(一八八〇)年の「愛媛県勧業月報」に、「久万山郷の如きは冬季数旬積雪ゆえ、畑の培養をなすに術なく、為めに漉山村の如きは専ら紙を製して、その他は情・紙等を運輸し、婦女は麻を紡ぎ畳糸を製して、玉蜀黍を拍(ひきわりずり)等を専らとす。」と描き出している。またその年の製紙積出高ー土佐紙三〇〇〇〆、大洲紙三〇〇〇〆、久万山大判紙・久万山厚紙あわせて二〇〇〇〆と記録する。この二〇〇〇〆の紙をお城下(松山)へはこんだ、明神・久谷・荏原の馬方の働きぶりを、「むごいもんぞえ明神馬子は三坂夜で行て夜で戻る。」と唄われている。世はすでに明治期に入りながらも、商品(貨幣)経済の恵沢に浴することの薄かった久万山郷の、明治初期のくらしを想わせる一齣である。
 焼畑山村としてのわが村は、ミツマタの導入によって、一挙に商品(貨幣)経済に飛躍発展した。地域の景観は、普通作物を前作としてミツマタ栽培に切替えられた。ミツマタは、風や雨の災害がなく、蔭地作物として、また排水性の砂礫土壌を好む作物として、選地のわずらわしさがない。高地も一〇〇〇メートルから一二〇〇メートル、傾斜も二〇度から三〇度ぐらいまで耕作できる。その上、多年生の作物として、栽培地・休閑地・未開拓地の輪作がきく広大地域を必要条件とした。これらの諸要素を満度に具えているのがわが村である。土地の耕地化条件がミツマタ栽培に、量的にも質的にも最適であることが、わが村の産業経済に革命的な夜明けをもたらせたといえよう。庄屋制以来、風雨災害に年毎苦しんだ普通作物栽培耕地は、食料作物を自家食料自給限度にとどめ、遠地や収穫の低い耕地はミツマタ栽培に切替えた。
 加えて農家の目と手足は、未利用地の開拓(耕地増反)に一挙に集中しつづけられたのである。地肌の景観は、がらりと変貌してゆく。春彼岸ごろは黄色いミツマタの花ざかり、夏は緑一色の葉の繁り、晩秋には落葉した木肌の橙色―これら単色のくりかえしが、焼畑山村の四季の移ろいをやわらげてくれた。
 新作物ミツマタの需要は膨らむ。ミツマタせんいの紙幣原料化は、「わが関奥もの」の高名を国内にとどろかせる導火線となった。ミツマタ農家の就労構造は一変した。従来の黒皮売り一本から、自家労力(特に屋外就労できない農閑期)の限度一ぱいに、白皮加工(やなぎへぐり―しろめしごと)に転換していった。山村はミツマタ景気に湧きあがった。子供の仕事手伝も華々しかった。
 
 「今日学校すんだらはよもんて、芋食うたら、おいなわさげて滝山へやなぎおいにこいよ。」「冬休みにやせえだして、やなぎけずれよ。」「せえだして手つどうとけ。ぼんにやあさうらかやつおれ、正月にや先皮つきの下駄と首巻き買うてやるけの。」すかしてしごとさし、じみなええ子にする親の利口さ。「わしや魂消たがや、金八つあんとか、しろめ百丸いうたけ、みなかともたら、おもや百丸、いんきよ百丸じゃげな。がいなもんじゃがや。」聞く者を勇み立たせる朝晩交わすごあいさつ、ミツマタ山村にこだまする。

 ミツマタ景気をうかがう数字の資料を一、二ひろってみる。昭和二九(一九五四)年度西谷ミツマタ生産組合資料―黒皮約一一四トン。翌三〇(一九五五)年度には、黒皮一三四トン、白皮約六〇トンと記録されており、生産戸数一六八戸、作付反別約一六○町歩である。も一つの資料は柳谷農業協同組合のミツマタ委託販売資料である。農協の取扱高は、村内総生産高の約三分の一を占めていたといわれる。同組合の年次報告書には、昭和二八~二九両年度ごろは、取扱高年間四万四〇〇〇貫(三六〇〇万円)にも及んでおり、最高の額となっている。それから推してそのころの村内総生産額は年間優に一億円(今日の二八~九億円相当)を超えていたものと見える。ミツマタ景気にうるおった焼畑山村のくらしは、小屋下げされた瓦屋根が映え、増改築された家並みはふくらみ、新建材で造作された佇いは、眼に豪華さと便利さをもたらしていったのである。
 しかし、特用作物ミツマタの特用寿命は、はかないものだった。和紙から洋紙への製造構造の一変と、紙幣の硬貨化とは、ミツマタ需要の低落を招いてしまった。洋紙化の大波は打つ手がない。紙幣の硬貨化については、昭和三一(一九五四)年から三三(一九五八)年にかけて、その阻止運動を果敢に続けたが、その施策の撤回の力となり得なかった。農協報告書に見える昭和三一年以降の激減は、このミツマタ景気のたそがれを告げている。昭和三六年から三七年にかけての最盛期の○・一パーセントそこそこを示しているのは、いかにも悲哀をおびたものを漂わしている。ミツマタ景気の燃炎は誠に革命的だった。同じくこの景気の消炎もまた革命的である。広汎に開拓された山畑。ミツマタの株失せと共に放置すれば、自然は本性のままに無秩序な荒廃へと戻ってゆく。しかし、農家の開拓の血脂に塗られた地肌の保存を、今更普通作物の再耕作に求める由もない。商品経済の歩みは、そうすることの愚かさを教えている。では地肌の荒れを阻み、その保存に生きる途を何に求めたらよいのか。
 焼畑を造成して、食料作物栽培を主とする普通作物期を出発点とした耕地開発は、ミツマタ中心の特用作物期を、革命的な第二期と意味づける。この期は半世紀に及んで商品経済開花を導き出し、今その花のしおれを機として、革命的な第三期を探し求めた。地肌の利用切替とも見えるが、その変貌は、商品経済の波を伴って弾力に富んでいる。その意味は大きく、「耕地の林地化へ。」と叫ぶ。長期を経営単位とする樹種の植栽管理である。計算単位は歳計を超える世代計(一年計算でなくて、一代計算)である。大規模の営農革命にその解答を求めるのである。
 村の地肌景観は一変してゆく。色移ろいゆくやわらぎは消えて、紺一色の単調さを日毎に濃くしてゆく。

 水田造成(田掘り) 

 島国ながらわが国は、古くから水稲栽培をとり入れた。モンスーン地帯の気象条件が、稲作をあこがれる農民生活を充たしてくれたのである。畑作にくらべて風水害は少なく、収穫皆無などのみじめさは稀である。ただ地肌の傾斜と、水の引き入れと、日照時間が、開田するかどうかの決め手であった。
 わが村でも、古くから田を欲しがったようである。しかし黒川が刻んだ地肌のひだ深く、急傾斜で影地が多い。谷川の系路は密だが、流れに沿う段丘や丘陵地少なく、傾斜面は直ちに川岸に迫る。高石垣を積み上げ、部厚く畦上げしても、水を溜める田の面はわずかである。谷は急流だから、導いてくる水路と堰づくりに、多大の労力と資金が要り、その維持に骨が折れる。「田所村」を夢みても、自然の頑くなな条件に対して、「畑所村」として恵みのうすい農家経営に諦めつづけた農民史であったとも考えられる。でも違い昔から、「田掘り」「田繕ろい」にかけた農家それぞれの根限りの勤労は大きい。それは採算をかえりみない田への執念であった。今日どの集落にも、どの谷沿いにも見られる「棚田風景」は、祖先の汗血にぬられた遺産であって、「辛抱するんだ。」と語りつづけている。

 休場組耕地整理組合 

 休場組は柳井川(今は大字中津)の最南端、高知県境に接する逆扇状の地域である。仁淀川岸標高三〇〇から三八〇メートルの扇の要に向かっている緩い斜面に集落が展開する。幕藩のころ、予土両国を結ぶ要路で、国境の関所を通れば、「伊い予伊い予」と、旅人の憩う処として、休場という地名も人なつこく語りつがれて来たようだ。緩い斜面は農家の住いを乗せており、水田が早くから掘り広げられ、平和でゆたかな農村のくらしが続けられてきた。
 昭和四(一九二九)年ごろからの農村恐慌の波を浴びて、わが村の農家四八〇戸は、負債約二九万余円(今日の一六億五〇〇〇万円相当)のしがらみに縛られてしまった。昭和一二(一九三七)年、柳谷村経済更生計画が樹立され、それぞれの地域の実情に即した実行目標が充てられ、休場組は水田の合理化のための増反計画が選択された。目標は第一~二期合わせて、二〇町歩に向かっての増反である。村はその完遂によって、水稲作反別八五町歩達成を目論んだのである。実行方法は組を一本化し単一組合体による、共同開田事業推進である。時に、水田既保有農家六八戸、保有地積八町八畝一六歩であった。以下、休場組耕地整理組合のたくましい歩みを尋ねる。

  ○休場組耕地整理組合設立総会―昭和八(一九三三)―二―一、組
   合設立申請者田城長太郎司会、出席組合員三八名を以て役員選任・
   設立費用承認等を議了、組合長田城長太郎選任。
  ○組合活動開始総会―昭和八(一九三三)―三―一七、組合費四九
   〇円(今日の四〇〇万円相当)の借入議決。
  ○組合事業資金(年賦金借入)議決―昭和八(一九三三)―一〇―
   一二、借入金予算額七八〇〇円(今日の六二八〇万円に相当)、
   借入先愛媛農工銀行、三〇か年々賦償還、利率年三分九厘。
  ○組合長田城長太郎病気退職、藤田順吉組合長となる。―昭和一〇
   (一九三五)―二―五。
  ○耕地整理事業計画着々進む
  ○水害復旧工事につき設計変更―昭和一〇(一九三五)―一〇―二
   ○、整理工事事業進行中、水害のため工事設計変更する。その工
   事資金借入を議決―一一一四円(今日の八九六万円に相当)。
  ○昭和一七(一九四二)―九水害による幹線水路決潰、その復旧工
   事費議決―昭和一八(一九四三)―三―二、二五〇〇円(今日の
   三二七万円相当)。
  ○昭和一八(一九四三)―九水害による幹線水路大決潰する。本格
   的工事について総会紛糾する。
  ○昭和一八(一九四四)―一一―一〇総会―慎重審議の末、幹線水
   路本格的復旧工事施行に決する。二か年間の継続事業とし、総工
   事費四万円(今日の五六四八万円に相当)を投じて復旧すること
   に議決する。

 以上の主要総会議決に見られるように、工事費の借入・投入・施工によって、開田・整備された地積は、約一二町歩に及んだ。はるか夜鳴川の標高四三〇メートル地点を取入口とする幹線水路は、休場組域内の開田地域まで、約四キロの長きに及ぶ。その水路を台風ごとの決潰と闘い続けて、その整備を完うしたのである。その闘いたるや、まことに過酷である。資金はほとんど農工銀行等の借入金による。組合員僅か六八名で背負うこの事業は重荷である。借入金の長期に亘る償還は、きびしいものであった。総会における、貯水池掘さくか、幹線水路の本格的復旧工事かの選択激論は、深刻そのものであっただろう。けれども組合員は、自力更生の情熱に燃えた。苦難への挑戦は、休場の里に芽生えた新しい勇気によって乗り越えられたのである。

 久主地区の水田の動態 

 中津山(一五四〇・六メートル)から時戸(二三〇メートル)に南下する小松谷(流長約四キロ)と、坊主山(一〇一八メートル)から旭(二四三・八メートル)へ南東下する西之谷川(流長約三キロ)に抱かれた傾斜の緩い(一一度から一五度)南東斜面これが久栖の里である。傾斜は緩く、日照度の高い南東斜面、小松谷・西之谷・ヒドロ谷・上場谷が、密に斜面をうるおして流れ下る。村内唯一の好条件開田地域である。庄屋制の寛保のころ(一七四〇年代)、久主村に課せられた貢租は、田二町一反三畝に対し、三三石八斗五升、畑一六町三反に対し、一〇八石六斗であった。田・畑の地積比は略一対八で、明治四(一八七一)年まで、この石高は据置かれていた。やがて地券設定の大事業が行われ、明治一一(一八七八)年一一月一日、愛媛県認定の地積は、田三七町一反二畝一〇歩、畑四五町一反一八歩と改定された。田畑いずれもおびただしい増反であるが、田の地積増反は一八倍余、田畑の地積比は、一〇対一三と接近している。寛保から明治初期まで、約一四〇年ほどの間、久主村農家の開田努力は、目ざましいものであったものと思われる。
 稲作は水によって育つ。対岸の丘、休場の美田一二町歩は、金と努力の塊ともいうべき夜鳴川からの基幹水路(四キロ)で養われるが、此岸久栖の里の三〇町歩余の水田は、自然に流れ下る小松谷から安々と導き入れられている。そしてその他の数条の小谷とつながり合って、全反別の隅々までうるおしている。
 それぞれの水路は、各組合員総出の労力提供によって維持管理される。取入口・分水点の補強・全水路の凌渫・決潰箇所の修復等、ほとんど経験からの智恵で処理されるが、ことにより購入資材の必要からの費用等は、反別割の拠出金で決済する。また旧中津村のころ、あるいは新村発足後も、恒久工事の施工は、村行政の助成を受けて処理している。
 こうして三〇町歩を超す美田は、五本の水路によって培われ、光と水に恵まれた秋ごとの豊稔の穂波は、わが久主の里の幸を讃えている。

 農業諸団体の組織化 

 明治後期から、農民の共同化によって、農業生産力を強化し、農民の地位を高めるため、各種農業諸団体(農会・産業組合・農業会・農業協同組合等)の組織化が次々に行われた。

 柳谷村農会 

 明治三二(一八九九)年に農会法が制定公布された。村内の農家はその会員として加入し、農会費も拠出していた。しかし、組織活動未成熟の農民であったため、事業活動の域にまで成長できず、単に農民意識の啓蒙の程度にとどまっていたようである。

 柳谷村信用購買組合から柳谷村昭和信用組合まで 

 明治三三(一九〇〇)年、産業組合法が制定公布され、その組織化が勧奨された。産業組合は、組合員の出資に基づく事業団体である。わが村では、法制定後一〇年経過して、大正二(一九一三)年七月、柳谷村信用購買組合が設立された。初代組合長は鶴井金次郎であった。昭和三(一九二八)年九月、柳谷村昭和信用組合と名称変更、二代組合長に鶴井輝義が就任した。(昭和三年から同五年まで)、三代組合長西川与十郎(昭和五年から同一〇年まで)、四代組合長鶴井浅次郎(昭和一〇年就任)、それ以降は不詳で、昭和一九(一九四四)年解散して、柳谷村農業会に引継いでいる。
 一方旧中津村地区においては、大正七(一九一八)年七月、中津村信用購買販売利用組合を設立した。初代組合長は、大西伝吾(大正七年から同一四年まで)、二代組合長篠崎佐吉(大正一四年から昭和二年まで)、三代組合長佐賀政太郎(昭和二年から同七年まで)、四代組合長長谷義元(昭和七年から同九年まで)、五代組合長石割福知(昭和九年から同一三年まで)、六代組合長鈴木茂(昭和一三年から同一五年まで)、七代組合長大西米蔵(昭和一五年)、八代組合長黒川弥吉(昭和一五年以下不詳)。昭和一九年解散して中津村農業会に引継いでいる。
 産業組合は、出資金(一〇一〇円ー今日の一〇万円相当)の拠出を伴うため、はじめは農家全体がその組合員となることができなかった。しかし数次の法改正を経て、各小組等の実行組合単位で加入できるようになり、農民全体がその組合員となるに至った。更に事業の合理化、組合の連合組織化も進み、団体の資本競争力も強化されて、各組合員は、自分が所属する組織の成員としての、利益を享受するに至ったのである。わけて昭和初期の不況期を乗切ることができたのは、産業組合の信用事業の拡充によって、農民金融の近代化が大きい牽引力となったからであると言い得よう。

 柳谷村農業会 

 日華事変から太平洋戦争へと、戦争が長期化するにつれて、国内の農政は戦時体制に組み込まれ、統制されていった。昭和一九(一九四四)年四月、今までの農会及び各種の産業組合をすべて統合し、村単位の農業会に一本化した。「農業二関スル国策二即応シ農業ノ整備発達ヲ図ル。」強力な国家統制機関であった。当初、会長は村長が兼務(旧柳谷村は初代丸石繁頼、二代森岡悟一、三代高岸勝繁、四代高橋亀尉。旧中津村は初代久保雅晴、二代伊藤幾太郎、三代政木茂十郎)することになっていた。
 農業会の基本性格は、実行団体たるにある。戦争熾烈期(昭和一九―四―一から同二〇―八―一五まで)には、食料増産供出が強化され、終戦処理期(昭和二〇―八―一五から同二三―八―一四まで)には、耕作農民の民主化施策のため、農地改革・食料増産供出強化・農業技術指導・貯蓄国策強化等を主軸に、経済復興参画が推し進められたのである。

 柳谷村農業協同組合そして久万農業協同組合柳谷支所へ 

 農地改革と農業団体民主化改組とは、終戦処理期に於ける農村民主化政策の両輪である。
(一)柳谷村農業協同組合の生い立ちーわれわれ農民のくらしは、「重荷に堪える駱駝」のあゆみに等しい。幕藩期以前はもちろん、明治四(一八七一)年から昭和二〇(一九四五)年まで、七五年に及ぶ近代化期を顧りみても、半封建の霧立ちこめる農民環境であった。行政指導と他産業圧力のまにまに、炎熱下の砂漠行ではなかったか。農業協同組合は、「すべての非農民的利害に支配されない耕作農民自らの協同意志の育ち。」をめざして生い立ったのである。
(二)柳谷村農業協同組合の育ち―昭和二三(一九四八)年八月一四日、戦時統制団体農業会が解散して、その資産・事業が一括引継がれた。柳谷村農業協同組合は之を引受け、民主的手続を経て設立された。一挙に民主的農業団体の体制が整ったのである。しかしその内容の充実においては、性急な成果は望み難い。知識の水準・経済的余裕・経営熟達度など、種々の隘路や障碍を解決しつつ、民主的体制を整えていかねばならなかった。その育ちの過程を顧みると、民主団体としての育ちのために、組合員の指導面に、事業構造とその運営改善に、組織強化の対策に、各般に亘って力をつくし、今日の定着が得られたものであろうと思われる。以下、久万農協との合併までの歩みの大要を述べる。

              (図表 柳谷村農業協同組合経営の大要 参照)

 農政の近代化 

第二次世界大戦後、福祉社会化の期に入ると、農地委員会制度の創設にはじまり、農業委員会制度へと改組されていく重農施策をとる。すなわち、農地開放による自作農を創設・推進する。この一連の制変化は、わが国農政の近代化施策の最たるものである。さきに明治新政府は、わが国産業経済社会の近代化を目指した。しかし、推進された施策の実態は、通商産業重点に傾斜していった。そのため農政は、通商産業施策に較べて、著しく疎外視されており、農業経営は、ほとんど個々の農業経営者の意志のままに委ねられていたと見られる実情となっていた。その著しいすがたは、農地における所有と耕作の分離となり、わが村では、昭和二(一九二七)年、小作率四五パーセントという異常な世相を示すに至ったのである。
 元米農業は、自占自耕が立前である。地券を設定して農地所有権の確立を果たし得たものの、瞬時にしてこの制度はこわれ、農民は所有者と耕作者の二極に分かれていった。明治一〇(一八七七)年から、昭和二二(一九四七)年まで、七〇年に及んで農山村社会をゆさぶる土地転変となった。この間においてわが村の農家は、商品貨幣経済下の恵沢に浴することが出来ず、乾ききった銭環境下において、「持ち得ざる銭」の身の代に、あの草山、この雑木山を手渡さねばならなかったのである。終戦は戦前の農政のあやまりに、きびしい警告を下した。農業本来のすがたにかえすよう施策したのである。これが農地令の公布・農地改革施策・さらに農業構造改善事業の展開へと進められていったのである。

 農地委員会の創設 

 農地改革は、「自作農の創設」を目標とする。国自体が、農地改革事業の主体者となって、事業を執行する責を負った。不在地主所有の小作地・保有制限された在村地主の小作地を買収して、それを小作者に売渡した。さらに未開墾の可耕地の解放などにまで拡大して、改革の目標達成を果たしたのであった。
 国はこの改革事業の実務を、各市町村に創設したそれぞれの「農地委員会」に当たらしめた。各農地委員会創設の経過をみると、(一)昭和二一(一九四六)年一二月、第一回選挙によって、階層代表制の農地委員会を構成―一号委員(小作層より)五名、二号委員(地主層より)三名、三号委員(自作層より)二名、計一〇名。(二)昭和二四(一九四九)年八月、第二回選挙によって、階層代表制の数配分是正―一号委員(小作層より)二名、二号委員(地主層より)二名、三号委員(自作眉より)六名、計一〇名。この数配分是正において、この農地改革の目標が、自作農創設、すなわち農業本来のすがたに復すことにあることが窺えるのである。
 つぎに、この改革事業による小作農地の自作農地化の経過をみると、(一)昭和四(一九二九)年四月一日現在、小作率(全耕地面積に対する比)柳谷村四五パーセント、旧中津村三五パーセント。(二)昭和二〇(一九四五)年一一月二三日現在小作率、柳谷村三一パーセント。旧中津村四〇パーセント。(三)昭和二五(一九五〇)年八月一日現在小作率、柳谷村旧中津村ともに五パーセント。(四)昭和三八(一九六三)年四月一日現在、新柳谷村小作率〇・二パーセント。となっており、農地改革施策は所期の成果を収めている。

 農業委員会の創設 

 農地委員会は、農地所有に関する改革目的を達成したので、昭和二六(一九五一)年三月三一日に発展的に改組された。これが農業委員会制度である。農業委員会の設置目的は、農地改革に因って完全自作農化した農家の経営態勢を整備する点にある。永い農地(生産手段)の変則な所有関係は、経営を不合理な状態に停め、その結果、他産業との間に著しい生産性の格差を招いていた。農業委員会の機能は、村内農家の経営体制の合理化を図って、その生産性を高め、農家所得の増強に因って、農家の地位の向上に寄与するにある。大別してみれば、農地の交換分合、農地の改良など、農地に属する部面と、技術改善を主軸として、農政一般に亘る調査研究・指導啓蒙をはじめ、農業構造改善に属する部面の二面を、その活動分野としている。
 委員会の構成は、選挙による委員一〇名、選任による委員三名(村議会・農協・農業共済よりそれぞれ一名あて)、計一三名である。
 以上、農地委員会につづく農業委員会の制度の運用によって、従来遅滞がちであった農政は、その合理化によって、耕作者の地位の安定を図るべく努力を続けている。

柳谷村ミツマタ局納調(旧中津を除く)

柳谷村ミツマタ局納調(旧中津を除く)


久主地区農用水路

久主地区農用水路


柳谷村農業協同組合経営の大要 1

柳谷村農業協同組合経営の大要 1


柳谷村農業協同組合経営の大要 2

柳谷村農業協同組合経営の大要 2


柳谷村農業協同組合経営の大要 3

柳谷村農業協同組合経営の大要 3


柳谷村農業協同組合経営の大要 4

柳谷村農業協同組合経営の大要 4