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柳谷村誌

第二節 林地

林業の村

わが村は林業の村と名づけるにふさわしい。入り組んだ山なみ、深い渓すじ、広い傾斜地。標高二〇〇メートル余から八〇〇メートルに亘るほとんどが急傾斜で、総面積の九〇パーセント余が林野である。
 気温・降水量・土壌などすべて、針葉樹種の植栽に適しており、降雪と台風通過に対する育林技術の配慮を加えれば、林業の村として繁栄を期待できる環境である。

 造林の足どり 

 わが村で人々が材木に注目しはじめたのは、明治二十五(一八九二)年の予土横断道路開通からである。自然林から角材・板材を木挽きし、製品を搬出販売しはじめた。ちょうどこのころ、大窪谷の鶴井儀太郎は、久万町の井部栄範の指導と苗の譲渡を受けて、植栽を創め、造林の草創者となった。
 その後、第一回―明治三十七・八年の日露戦争、第二回―日華事変と久万梼原線開通、第三回―終戦後の復興と材価の高騰、更にひきつづくミツマタ畑の切替転換と農林道開さく……とブームを呼びつづけていった。昭和五七(一九八二)年末、植林率は九〇パーセントに達した。

森林組合の沿革 

 森林組合が法律上の制度として発足したのは、明治四〇(一九〇七)年に森林法の改正によって規定が設けられたのであるが、わが村では、昭和一五(一九四〇)年、日華事変によって戦時経済が進展するに伴い、木材薪炭の急激な需要に迫られ、組合設立して林産物の調達を図る目的で、行政の要請(昭和一五―三―一四、柳谷村会は、改正森林法に基づき柳谷村森林組合結成につき諮問に答申)に因って設立された。この時の組合は、二反歩以上の森林所有者は強制加入させられ、一村一組合であった。昭和二五(一九五〇)年、戦後の荒廃森林回復と、森林の公益的機能の遂行と、林地所有者の経済的社会的地位の向上等を目標とする制度に改正され、一行政体一組合の廃止、加入脱退自由となり、協同組合的性格として再出発した。昭和五三(一九七八)年五月、森林組合法が制定され、従来森林法の中で定められた森林組合が、単独法となり、地域林業の担い手として期待される内容となり現在に至っている。
 昭和一六(一九四一)年設立の森林組合は、初代組合長藤坂利雄、二代組合長に丸石繁頼が就任したが、それぞれ一年余で退任。続いて藤田順吉が就任して、林産物資供出に当たった。戦時下軍の方針は、強制的な数量割当で、村内の労務者を集め、伐採命令により行った。運材車両の入手意のままにならず、そのうち終戦となり、一時戦災復興までには余程生産が優先し、村内にも至る所に、丸太が放置され、腐ったり焼払われたりであった。このため伐材の精算も正確になされないまま、昭和二三年ごろ、組合は自然解散の姿となった。
 昭和二七(一九五二)年三月、小坂卯太郎が組合長となり、森林施業の合理化と、森林所有者の経済的社会的地位向上という、協同組合精神を基本とした組合が発足した。この時期は戦争復興が漸く盛んになった時で、材価が空前の高騰を見たが、組合事業は造林が中心であり、松山・北吉井方面から杉桧の毛子を導入し、組合員に配布、林家自身で育苗・植林を行わせ、また国から交付された造林補助金を取扱う業務が大部分であった。
 昭和三〇(一九五五)年八月、旧中津村の一部の合併により、村長政木茂十郎が兼務就任し、造林補助金の取扱と共に、村有林の造林受託を開始した。
 昭和三六(一九六一)年九月、事業拡大と責任態勢の確立を期する目的で、常勤役員を置くこととし、西村正男が就任した。この時期に木材・椎茸の共販事業を手がけたが、村内に木材取扱業者が二〇名以上おり、立木売りが中心の時期であり、資金力も乏しかったため伸長が見られなかった。
 昭和三九(一九六四)年四月、近澤房男村長就任と共に組合長を兼務した。地域林業の担い手としての森林組合の強化に、積極的に取組み、昭和四一(一九六六)年、第一次林業構造改善事業の指定を受け、素材生産施設や椎茸生産施設を導入し、それまで僅少であった木材・椎茸の共販事業を開始した。また大型集材機を導入し、国有林々産事業を行ったことは、組合労務班の育成と組合の強化に大きく貢献した。
 昭和四五(一九七〇)年二月、西本繁久が常勤組合長として就任し、名実共に独立した姿となった。前年四四年に久万山市場が開設され、従来の立木売りから組合経由市売りが主力となった。共販活動が急速に延び、木材屋は存立の余地をなくし、同時に立木売りはすべて、正量安定取引となる。この市場開設と共に、林業の担い手として信頼されたものに、造林資金の転貸融資がある。昭和四五年の大風害から林業振興の目的で政府より貸出され、五七年末で、五億四〇〇〇万円に達し、林業振興に大きく寄与した。
 昭和四九(一九七四)年第二次林業構造改善事業の指定を受け、貯木場及び木材加工施設を設置し、組合員の要望に応えると共に、今後大量に生産される木材の流通対策に備えた。
 昭和五七年現在では、事業総扱高三億八〇〇万円、常勤役職員八名、雇用労務班員八九名に達し、本村林業の担い手として期待に応えられる組合となった。
昭和五八(一九八三)年二月一四日、西本繁久組合長は、つぎのように林政意見を開陳した。

 今日林産市況は低迷が続き、その活性復活について予測を立てることは至難な状況である。かえりみて、わが村の植林率は九〇パーセントを超えており、育成中の面積九千ヘクタールの広きに及んでいる。従来の植込みのさかんであった頃は、年間二百ヘクタールを超える活気であったが、近年々間四十ヘクタールを割り、十ヘククータ迄にも落ちている低調さを見せている。この近況に於て最も憂慮されることは、組合員の意識の動向である。新たに植込むことの低調さよりも、植込済み植林への育成意欲の薄らぎである。
 植林立村に生き抜かねばならない柳谷村民は、なにを信条とすべきか。市況の浮沈に一喜一憂してはならない。眼を中期・長期に馳せて、不動の信条を貫ぬく勇気と積極性を傾注せねばならない。以下三大信条を掲げる。

  第一 樹種への省察
   本村の植林率九〇パーセントは、すぎ、ひのきの樹種に偏しすぎ
   ている。九〇〇〇ヘクタールの約二〇パーセントは、くぬぎを主
   軸とする広葉樹種に切替えるべきである。今後、未植込地及び針
   葉樹種伐材跡地には、必ずくぬぎを植込むよう強く勧奨する。
  第二 除間伐の強行
   既値込育成林地の目標を、大径木育成におく。そのための重点事
   項は、除間伐貫行である。
  第三 林道の開設
   林産の市場対応は、流通費の低減にある。その解答は林道の開設
   である。どんな美林銘木も、林道との連繋に恵まれないとき、そ
   の商品化性は欠除するからである。

柳谷村森林面積

柳谷村森林面積


山林保有階層別林家戸数

山林保有階層別林家戸数


歴代組合長歴任表

歴代組合長歴任表


常勤役員制実施後の業務活動の大要 1

常勤役員制実施後の業務活動の大要 1


常勤役員制実施後の業務活動の大要 2

常勤役員制実施後の業務活動の大要 2


常勤役員制実施後の業務活動の大要 3

常勤役員制実施後の業務活動の大要 3


常勤役員制実施後の業務活動の大要 4

常勤役員制実施後の業務活動の大要 4


常勤役員制実施後の業務活動の大要 5

常勤役員制実施後の業務活動の大要 5


常勤役員制実施後の業務活動の大要 6

常勤役員制実施後の業務活動の大要 6