データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

(一) 第一期 塩代期(文歩のころから銭厘のころまで=庄屋のころから明治のはじめころまで)

 衣食化ほとんど自給自足に近い。いりこをはじめ、海でとれた干物・塩物から置薬まで、里や浜や北陸方面からの「あきんど」がもってくる。欲しい品は、うちで作った穀もの・野山で拾った干ものにしたわらび、ぜんまい、木の実、竹皮などと物々交換する。女子供が欲しがる小間物は、年に一どくる小間物売りと物々交換して事足りる。ぜにがなくても、さほど事欠かないこのころであった。
 しかし命の綱である塩は専売品である。味つけは塩だけではこと足りない。みそ・しょうゆ・ひしおは、わが家でつくる。年中食べる漬物にも、かれこれ塩が要る。ぜにはなくても塩だけは、叺入りで店で買わにゃならん。盆、暮(年のくれ)勘定で、地元の店から塩を掛買する。口約束では店は承知せん。盆暮になっても、ぜにで払うめどがないのが当たり前のこのころであった。
 そこで、誰かに、何かに、助けを求める。みんなぜにがないのだから、「誰かに」は幻の世の中。「何かに」に手を伸ばす。借りる塩代の当て(あてるから低当と言い、になわすから担保という)に、「向かいの雑木山、峰の草山阿反何畝阿歩何合を渡します。」と書いてゆびばんを捺した証文を渡しておく。塩代に身代(財産)が文字どおり身代りすることが多くなっていった。「地主」というものができたのも、塩が因のようである。渡した雑木山・草山は、焼畑に拓いて、食う物を作らねばならない。「うちの地」が「当たり地」となる。「小作」がふえたのも塩が因となったようである。勝手に拓いて作って食った(食らう→食らわす→暮らす→生活する)普の、ほのぼのとした時世は、大きく変わって、なんとも世知辛い(塩辛い)所帯であった。一文一分が、一銭一厘がくらしの大道を門歩していた時世、このころを塩代期と名づけてみる。この期ずいぶん永かったと思われる。