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柳谷村誌

一 戦後の教育再建

 昭和二〇年八月一四日のポツダム宣言の受諾、一五日の終戦の詔勅により、永く続いた太平洋戦争はわが国の敗戦という形で終止符をうつことになった。わが国は、連合軍の占領下におかれ連合軍総司令部の支配を受けた。そして政治、経済、社会、文化のすべての面で深刻な改革を要求されることになったが、教育もその例外ではなかった。戦時中の窮乏生活をしながら、敗戦の経験はなくひたすら必勝を念じつづけた国民にとって敗戦の厳しさは直ちに感じとれなかったが、日がたつにつれ、敗戦、占領政策のきびしさが身にしみたのであった。
 終戦直後の教育行政の最大の課題は、戦争遂行のための教育体制と実践をできるだけ早く平常にもどすことであった。文部省は、いち早く八月一五日地方長官及び直轄学校長あてに「教育再建のための訓令」を、八月二八日には、「時局の変転に伴う学校教育に関する件」の通達を出してその課題の処理を急いでいる。
 課題の一は、平常授業への復帰であった。通達の中に、学生生徒を帰省せしめたる学校にありても遅くとも九月より授業を開始すること等、授業の再開・実施の注意などをのべている。
 その二は、戦争中の決戦教育措置や戦時教育令により、国民学校初等科以外の全国三四〇万人の動員学徒を平静な学校の授業に復帰させることである。政府は、これらの学徒を動員から解除するため、二〇年八月一八日、「動員解除に関する件」の次官通達を出している。
 第三は、帰還教員の受け入れである。国民学校教員からも多数の応召者が出ていたが、続々と帰還してくる応召者の受入れをどうするか心をくだいた。
 第四は、疎開学童の復帰を急ぐことである。
 第五は、国防軍備等を強調した教材・戦意高揚に関する教材、国際親
和を妨げるおそれのある教材など、終戦後の事態に合わない教材を削除すること等であった。
 無条件降伏の結果として、わが国の政治は列国との平和条約の発効まで、連合軍最高司令官の管理下におかれた。日本の占領管理に最も大きな役割を果たし、最大の権限をもっていたのは、連合軍最高司令官(マッカーサー)であった。最高司令官は、日本政府に対して数々の指令を発し、政府はその指令に基づいて法令・制度の改廃を行い行政を実施した。最高司令官の下には、占領政策の執行機関として連合軍総司令部(GHQ)が東京に設けられ、教育関係を直接担当したのは、総司令部の部局の中の民間情報教育局(CIE)である。占領中、わが国教育の民主化に対して多数の指令が発せられた。その主なものは次のとおりである。
 その一は、「日本の教育制度の管理について」(昭二二、一〇、二二指令)である。基本方針として、軍国主義及び極端な国家思想主義の普及を禁止し、軍国教育の教科及び教練はすべて廃止すること、議会政治、国際平和、個人の思想及び集会、言論、信仰の自由など基本的人権の思想に合致する諸概念の教授及び実践の確立を奨励することなどを示している。
 その二は、「教員及び教育関係官の調査、除外認定に関する件」(昭二〇、一〇、三〇指令)である。これは、日本の教育機構の中から軍国主義的かつ極端な国家主義的影響を払拭するため、またこのような思想の影響継続の可能性を防止するため、教育関係者を調査して不適格者を除外し適格者を認可することを命じたものである。
 その三は、「国家神道、神社神道に対する政府の保証支援保全監督並びに弘布の廃止に関する件」(昭二〇、一二、一五指令)である。国家神道、神社神道が日本国民に信仰と経済的負担を強制し、その教理や信仰がゆがめられ、日本国民を戦争に導いた軍国主義並びに極端な国家主義的宣伝に利用されたとして、政府がこれを保証、支援、保全、監督及び公布することを禁ずるとともに、他の宗教と同様に神道も学校教育から除外することを命じたものである。この指令の実施により、それまで学校の精神的中心と考えられていた御真影、奉安殿、忠魂碑、校内にある神社、神棚などいっさい取り除かれた。
 その四は、「修身、日本歴史および地理停止に関する件」(昭二〇、一二、三一指令)である。これは、すべての学校において修身、日本歴史及び地理の課程を即時中止すべきことを命じたものであった。「日本政府が、軍国主義および極端な国家主義的観念を修身、日本歴史、地理科の教科書に執拗に織りこんで生徒に課し、このような観念を生徒の頭脳に植えこまんがために教育を利用した」との理由のもとに発せられた指令で、この指令の実施によって、修身、日本歴史及び地理の授業が中止されたばかりでなく、これまでの教科書や教師用書はすべて回収され、戦時中に皇国民の錬成を目標とした国民科は完全に崩壊することになった。
 以上のような諸指令の実施によって、日本の軍国主義と極端な国家主義につながる教育体制を排除したあと、どのように教育体制を企画し、いかにして民主化体制を確立するかは、教育専門家の協力をまたねばならない段階となった。そのためアメリカから、ジョージ・D・ストダート博士を団長とする米国教育界代表二七名の米国教育使節団が昭和二一年三月来日した。同使節団は、約一か月滞在して報告書をマッカーサー最高司令官に提出している。これが第一次米国教育使節団報告書である。この報告書は形式的な勧告書であるがを受け入れ、これを基本として日本の教育再建を指導することになった。その中には、教育の地方分権化、民主主義の原理による教育の目的、内容の再編成、国語の改革、初等中等学校における教育行政、教員養成制度の刷新、成人教育等重要な提案を含んでいた。
 昭和二一年一一月三日には、日本国憲法が公布され、翌二二年五月三日に施行された。この新憲法の明治憲法に見られない画期的な点の一つは、第二六条に「教育を受ける権利」を規定したことであった。
 第二六条(教育を受ける権利、教育の義務)
 ①すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じてひ
 としく教育を受ける権利を有する。
 ②すべての国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に
 普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育はこれを無償とする。
と述べ、教育の機会均等、義務教育及びその無償について定められた。
 教育の基本は、戦前教育勅語によるとされていたが、戦後民主化が進む中で微妙な経過をたどりながら、教育勅語に疑問がもたれるようになった。文部省は、昭和二〇年「教育勅語の取扱いについて」の通達を出している。更に昭和二三年議会において教育勅語などの排除あるいは無効の決議により、各学校にあった謄本は回収された。
 新憲法の施行に伴い、昭和二二年三月「教育基本法」が法律として定められた。この教育基本法は、新憲法の精神にのっとり、教育の目的・方針を定め教育の基本について明らかにしたもので、道徳的、倫理的な性格をももったものである。これまで勅語・勅令によって律せられてきた教育行政が国会の定めた法律によるようになった点において特に意義深いものがある。教育基本法の一、教育の目的には、「教育は、人格の完成をめざし、平和的国家社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」と述べられ、新憲法で定められた教育に関する諸条文の精神をいっそう具体化し今後日本の教育上の諸原則を明確にした。
 また、新しく制定された教育基本法にそって学校教育の体制を改めるために、昭和二二年三月三一日「学校教育法」が制定された。従来わが国では、各学校別に勅令による学校令を制定し、それに施行規則をつけて教育行政が行われてきた。このたびこれを改め学校の体制をきめる基本規定を法律で公布し、それによって行うことになった。新しい学校の体系は、いわゆる六・三・三・四制であって、小学校六年、中学校三年、高等学校三年、大学四年と、その上に大学院を設けるものである。わが国が過去八〇年間にわたり作り上げた複雑な学校制度に比べると、全体系がきわめて単純なものとなった。この制定によって、四月一日から新学制による学校が発足することになり、六・三制として義務教育の年限は延長され九か年となった。
 新学制の実施によって、教育課程は大きく改められた。昭和二二年五月二三日に公布された「学校教育法施行規則」で小学校については、「小学校の教科は、国語、社会、算数、理科、音楽、家庭、体育及び自由研究を基準とする」とし、中学校については、「必修教科は、国語、社会、数学、理科、音楽、図画工作、体育及び職業科を基準とし選択教科は、外国語、習字、職業及び自由研究を基準とする」と、基準を示し、その具体的事項については、「教育課程・教科内容及びその取扱いについては学習指導要領の基準による」とした。昭和二二年三月には、小、中学校の「学習指導要領」が発行された。