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柳谷村誌

二 統合中学校の誕生

 昭和三五年三月 村当局は柳谷村の三つの中学校、西谷中学校、柳井川中学校、中津中学校の統合計画をうち出した。この頃は「過疎」という言葉はどこからも聞かれなかったし、愛媛県下でも中学校の統合はほとんどなかった。こうした社会情勢の中で、新しい村造りに意欲を燃やす村当局は、村造りは人造りという基本にたってこのまだ誰もが手をつけていない統合にふみきった。
・時代の要請にこたえ、中学校経営の合理化、規模の適正によって教育効果のより一層の増大をはかりたい。
・三中学校の統合により村財政の集中効率を図る。
 右のような趣旨によって、村教育委員会の決議として村理事者・村議会にはかったのは同年一二月であった。村当局は、教育委員会の決議をもとにし、中学校統合の意志を固めて適正規模による中学校建設のための用地の検討を開始した。
 昭和三五年四月村当局は、柳谷中学校の校舎位置を大字柳井川永野目戸越と決めた。そして、遠距離通学生のための通学バスと寄宿舎を設置するという画期的な方針をうち出した。しかし、中津中学校校区の人たちは、基本的には、中学校統合に賛成しつつも目戸越の位置に強く反対し村の文教の中心は黒川の柳井川中学校の位置が最適であるとして、校区民の総意をもって村側に原案撤回を求める陳情書を出し強い反対の意向を示した。
 昭和三六年二月、村議会は、村長提案の目戸越案を可決した。中津校区民は、この村議会の取り消を要求し、高知県高岡郡仁淀村別枝中学校との統合を推進するとし、三月一七日陳情書を提出した。村側は高知県側との統合は考えられないとしてねばり強い説得を続けたが了解は得られなかった。
 その後、村当局と中津地区民の間で度重なる熱心な討議がくりかえされた。種々のうよ曲折はあったが、基本的に地域の教育を愛するという気持ちには変わりなく、村当局の方針通り柳井川字永野目戸越に統合中学校が建築される運びとなったのである。
 統合中学校の敷地永野目戸越は、海抜四九八メートル、ヤナギ畑、麦畑を主とし、一部杉林の柳谷としては比較的ゆるやかな土地で、普通教室、特別教室、野球もできる運動場、体育館、プール等、統合中学校の構想を描くとき、多くの人たちの考え方としても、この地のほかに適地はないのではないかという考えが多かった。
 しかし、西谷地区の中心地古味から九・五キロ、同地区の中久保からは、一五キロもあり通学対策は重要な課題であった。村当局は、通学バス、寄宿舎設置等をその対策として考え、特に寄宿舎建設には強い意欲をもってあたった。
 統合中学校の位置問題、地理的位置等々の困難な条件を克服しつつ、新雪に妨げられながらも、三八年新春とともにその建設工事は急ピッチで進められた。
 新築の校舎は、総工費五二五〇万円を投じ、三七年三月二七日に着工、運動場は、三八年一月二〇日、高知市の自衛隊第三二五地区施設隊の応援をえて、九八〇〇平方メートルに及ぶ運動場の造成工事が行われるようになった。
 課題の寄宿舎も木造瓦葺二階建一棟及び平屋建、一九六坪、工費備品費九九九三万円余のものが建築された。寄宿舎には最高一三四名収容の部屋と食堂などが完備されたのである。
 こうして生みの苦しみをのりこえて進められた統合柳谷中学校の建設は、その槌音も高らかに四国の山々にひびきわたるのである(『柳中一〇年の歩み』より)。

  柳谷中学校沿革の大要

・昭和三六年二月七日 新しい村造りの基盤とし、且つ、中学校経営の
          合理化、規模の適正化と充実、教育効果の向上を
          図る理想のもとに、村内の三中学校(西谷、柳井
          川、中津)を廃し、柳谷中学校への統合を村議会
          において決議する。
      四月一日 名目統合し、元中津、柳井川、西谷の三中学校
          を分室とする。
     六月一三日 柳谷中学校、校章を制定する。
・昭和三七年三月二七日 本館建物、(延三一七・三〇八坪)松山市大
           和建設が二二〇〇万円で請負う。
       九月八日 普通教棟鉄筋三階建(二五〇〇平方メートル)
           入札により、松山市大和建設が(三〇五〇万円)
           にて請負い九月一五日着工。
・昭和三八年一月三〇日 校庭造成工事に着工、受託者、自衛隊第一三
           師団 協定金額(四八四・一万円)
      六月二五日 校庭造成工事完了する。
      九月三〇日 寄宿舎建築着工 松原常一氏(一〇五万円)
           請負う。
・昭和三九年三月八日 本館、普通教棟、寄宿舎の落成式を行う。小雪
          の中、村をあげて祝賀。同日柳谷中学校校旗及び
          校歌(作詞松本健、作曲岡崎賢次郎)の制定。
     三月二三日 本日をもって中津、西谷、柳井川分室を閉鎖す
          る。
      四月九日 入学式挙行。本日より新校舎で授業開始、実質
          統合なる。
     七月一五日 技術科教棟着工、松原常一氏(四〇六万円)請
          負う。
    一〇月三一日 技術科教棟落成。 二十日、体育庫、二五万円
          で松原常一氏請負う。同日、特別教棟(給食セン
          ター、調理室・理科室)鉄筋二階建(一六〇八万
          円)にて松山大和建設請負着工。
    一〇月~二月 PTA父兄の奉仕、四〇〇人役をかけて校庭緑
          化及び石積み作業を行う。
・昭和四〇年四月二三日 特別教棟並びに学校給食センター落成する。
      四月三〇日 全村、学校給食センターによる学校給を開始
           する。
      五月 一日 柳谷中学校寄宿舎を清和寮と命名する。
      八月二五日 運動場西側の金網張工事を完了する。
      九月一一日 愛媛県教育委員会義務教育課、松山教育事務
           所の合同訪問を受ける。
・昭和四一年四月 普通教棟から技術教棟ヘの渡り廊下を作る(二四万
        円)
       五月一日 高松宮宣仁親王殿下ご来校
・昭和四二年五月一五日 本館前玄関に通じる表道路永井建設により完
           成。運動場北側の土羽、中居建設完成。
・昭和四三年七月一日 玄関前鑑賞池、永井勝氏の奉仕にて完成する
・昭和四四年七月一日 立志の碑完成 原石、小森彦次、亀井武弘、森
          岡広志氏、彫、竹田実氏、世話人、館野喜三郎P
          TA会長他役員、題字、森一久教育長    
    一〇月三〇日 体育館落成 富岡組(一七四五万円)
    一〇月二六日 県へき地研究大会において優良中学校として表
          彰を受ける。
・昭和四六年六月二日 運動場に夜間照明施設ができる。
      八月七日 水泳プール落成する。岡田建設
・昭和四七年三月四日 昭和四十六年度学校緑化コンクールで県下唯一
          の特選校となり受賞する。
・昭和四八年一〇月四日 郡統一研究会統計部会会場校として授業公開
・昭和四九年一〇月一日 郡統一研美術科研究会会場校として授業公開
・昭和五〇年六月一三日 郡統一研保健体育研究会会場校として授業公
           開
・昭和五一年七月二六~七日 第六回四国地区公立小中学校寄宿舎運営
             研究大会の会場校として発表。
        九月一四日 郡統一研理科研究会会場校として授業公
             開
・昭和五二年九月一四日 郡統一研究会道徳・特活研究会会場校
・昭和五四・五五年 文部省指定道徳教育協同研究推進校として二年継
         続研究を行う。   
・昭和五六年九月一八日 上教研教科等研究会国語・理科の会場校とし
           て授業公開
・昭和五七年九月二一日 上教研教科等研究会社会・理科の会場校とし
           て授業公開
     一〇月一三日 郡校長会・地教委の合同訪問を受ける。
    
     柳谷中学校校歌
        作詞 松本 健 作曲 岡崎賢次郎
 一、たたなづく 四国の山なみ ひだ深く
   みどり色こき この丘に
   雄々しくたてる学舎は
   若きえいちを みがくその
   ああ われら われらが 柳谷中学校
 二、悠久の 流れを秘めて 今日もゆく
   青き水澄む 黒川の
   清気を受ける 学舎は
   理想のひとみ もゆるその
   ああ われら われらが 柳谷中学校
 三、つづらおる けわしき山路 はるけくも
   希望の空へ 続く丘
   朝霧はれる 学舎は
   愛と誠の みつるその
   ああ われら われらが 柳谷中学校
          (昭、三九、三、八、制定)

柳谷中学校生徒数・学級数のうつりかわり

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