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柳谷村誌

三 新しい教育の試み・集合学習

 戦後昭和三〇年代から、日本の産業構造の変化は著しく、その変化にともなって山村から都市への人口移動の増加は年を追うごとにその激しさを増し、山村は、過疎化の波にあらわれるようになった。その表れの明らかなのは、小中学児童生徒の著しい減少である。
 昭和三五年度に、西谷小学校一二学級、柳井川小学校一二学級、中津小学校六学級であったが、その後昭和四〇年代に入り児童数は激減の一途をたどり、昭和四五年度に村内最初の複式学級が一学級中津小学校に生まれた。昭和四九年には中津小学校では、複式学級が二学級になり、昭和五二年に西谷小学校でも複式学級が二学級できた。現在では、昭和三五年度の児童数に比して、西谷小学校では約二〇分の一、柳井川小学校で約八分の一、中津小学校で約一〇分の一に減少したことになり、西谷小学校では全学年が複式学級に、柳井川・中津小学校では二学級が、それぞれ複式学級となった。このような現象は、昭和三〇年代には誰しも夢想だにしなかったことである。
 学校あるいは学級を単位とする教育活動を行う時、教科や領域の内容によっては児童生徒の集団に適度の大きさが要求される場合があるが、このような小規模化していく現象の中で、正常な教育活動を営むことが大変困難な事態にたちいたった。これを出来るだけ克服するために、各小規模校では、生き生きした学習を展開するために、また、協調性、社会性を育成するために、校内において全校的な教育活動の場を多くしたり、学年たてわりの活動をとり入れたりして、できるだけ大集団や異集団の経験をさせる努力を行った。しかし、その対応も児童の減少の前には対処しきれず、一単位学校では如何ともし難い状態になってきた。
 このような中にあって、柳谷村ではその対策方法として英断を下したのが昭和五七年五月より村内三小学校間で実施されるようになった集合学習であった。この試みは、郡内はもとより県下でも初めての試みとして注目されている。この実施に当たって村では、児童輸送用として、五七年、マイクロバスを購入した。
 極少人数化が徐々に進んでいる複式学級の児童生徒に、適正規模の集団の中で学習する機会を与えるため、自校の教育の場から離れより大きな集団の中で自己を見つめるとともに、学力や体力を伸ばし、協力性、適応性を向上させ、へき地性を克服し社会性を育成することは、へき地教育にとっては大きな課題である。集合学習は、このような点に着目したへき地教育のすすめ方の一方法である。村内の複式の学校の児童を一か所に集め、各領域の指導計画の一部について、関係学校の教師の協力的な指導のもとで展開する共同的な教育方法である。
 これに類似した教育活動に「交流学習」というのがあり他町村でも行われていた。この交流学習は、年に一回程度の運動会的又は学芸的な行事中心的なものであり児童生徒の視野をなんとなく広げるという消極的なものであった。これに対し集合学習は、特別活動や教科にまで学習内容を広げるとともに、各学校の教育課程に明確に位置づけたものとして実践されているというところに大変大きな意味をもっている。
 柳谷村では、教科として音楽、体育、図工及び特別活動を各校のそれぞれの年間指導計画に、どの時期に、どの教科をどこで集合学習として実施するか明確に位置づけ、昭和五七年度には、年間二〇数回の実践を積み上げた。
 この集合学習の実践を通して現場の評価反省として次のようなことが述べられている。
 子供サイドより
 ・学習に活気がある。 ・学習が大変楽しい。 ・作品に力がある。 
 ・作業活動に普通にない意欲・情感がある。 ・学習に根気やねばり
 が感じられる。
 教師サイドより
 ・授業に張り気がある。 ・他教師の指導を見ることにより相互研修
 に役立つ。 ・教師が複数で指導に当たるため今まで以上に児童一人
 一人の個性や活動・考え方をつかむのに都合がよい。 ・合議で学習
 計画がたてられるため、よりよい指導が期待できる。
 このように集合学習の実践を通しての成果が報告されている。今後、ますます過疎化していく中で、その現象にまけず雄々しくたちむかうため、村内教職員が共同しよりよい教育を創造する姿が、集合学習に集約されている。

村内三小学校の児童数・学級数の推移

村内三小学校の児童数・学級数の推移