データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

三 青年団活動

 終戦の混乱の中から、「新日本建設」「文化国家建設」をスローガンに、村の青年団が結成されたのは、昭和二一年のようである。
 「終戦後、私達はどれ程、此の現実に見る国の秋の訪れを待ちこがれたことか」「自由たる考えに立ち、しかも正しくして、責任を持ち、平和な世界人とならねばならぬ」(柳谷第二青年団、古味志学会、昭和二一年秋巻号抜すい原文のまま)が唯一の手がかりとなるが、当時の青年の素朴な意気込みが感じられる。

 青年団結成と活動 

 当時の青年たちは、今ほど大学間の顔見知りも少なかったので、結成は西谷、柳井川の地区ごとにされたもののようである。
  青年は長い抑圧の社会から、自由解放の社会を迎え、何かをしなけ
 ればとの意気込みに燃えたものの、まだ確たる目標も、活動方向も定
 まらないまま、集落を中心とした青年の固まりが、思い思いに芝居や
 やくざ踊り、バレーボール、ガリ版刷り文芸冊子、機関紙等に、吐け
 口を見出していたようである。
  どのようなきっかけであったか、永野の泉増喜宅の二階に、西谷・
 柳井川の青年有志が集まり、その後の会合を経て、二三年に大同団結
 したのが真相のようで、この時の団長が西川渉で二年間つとめている。
 このころから青年団の花形として、体育大会が大きく花開いていくのである。
 昭和二五年になって、柳谷村統一の第一回柳谷村青年体育大会が開催されており、青年のスポーツ熱は大きな盛り上がりとなる。
 さらに二六年には、弁論大会の開催や産業振興にも積極的に取り組み、郡連合青年団第一回産業研究発表大会(下畑野川公民館)に柳谷青年団からも参加、さらに愛媛振興産業大会に郡連を代表して、小坂幸雄が参加し「椎茸栽培」についての研究発表を行っている。
 昭和二七年三月一二日、一三日青年団の講和条約記念行事として行われた、桜の植樹は、その後の道路改良で大部分が除伐されたものの、現在落出から古味間の国道四四〇号線沿いに、大木となってその名残りをとどめ、開花どきには、村民や観光客をよろこばせている。
 昭和二七年「青年学級に関する規則」が教育委員会で制定され、青年学級振興に力を注がれることになるが、柳井川には落出に上浮穴定時制高校が設置されていたので、青年学級を省き、「西谷青年学級」が設置された。主事には西谷中学校長永井保一が委嘱を受け、学級代表山木健雄らによって、青年学級活動が活発に展開されるようになった。
 一方産業振興の担い手として、青年に対する地域の期待は大きく、二八年から農林産物品評会を開催し、農林産物の品質の向上や、多収穫への技術研究の発表も行われ、地域産業振興にも貢献した。
 昭和三〇年旧中津村の一部が、吸収合併されたことに合わせて、青年団も合併し、団長に正岡秀雄が就任した。

 青年団と学習活動 

 昭和三二年には社会教育主事が設置され、青年教育、青年団活動も活発化し、地域における演劇発表会、機関紙の発行などが行われた。また八釜の甌穴郡探勝のための遊歩道新設工事が青年団の手によって、二か年計画で進められて完成した。
 昭和三三年になって、青年学級主事として、当時の小学校教頭が任命され、学級も、名荷・古味・本谷・柳井川・中津の五学級が開設されて、学習活動が活発化したが、中でも名荷や中津の学級は毎夜のように集って盛んであった。
 このように学習活動が活発化するとともに、六月二八日、二九日には、「柳谷村青年学級研修大会」が、九月一三日、一四日には一泊二日で「柳谷村青年幹部研修会」が開催されている。
 このような活動の中で、ロマンスも生れ幾組かのカップルが誕生し、そのうちの一組は時の青年団長大崎明の仲人で、青年団結婚式によってゴールインする事例も生まれた。
 青年団がもっとも充実した時期であったので、「公民館建設運動」を展開しつつあったが、同じ時期、中学校統合問題が発生したため、この運動は実を結ぶことなく終った。
 三六年九月二日、三日の両日、五段高原で東津野・柳谷両村の青年交流キャンプが催された。これは青年教育と、両村の生活文化の交流がねらいであった。開講式は柳谷村教委の挨拶、高知県教委の山崎社会教育課長が激励の言葉。
 各テントには両村のメンバーを割当てたので、はじめはぎこちなさや、照れくささもあったが、そこは若者のこと、高知県教委野村主事の巧みなリードによる、夜のキャンプと余興の出し物で雰囲気は最高潮。
 第二日目は、〝四国カルストについて〟〝高原の史跡伝説〟〝高原の植物〟〝高原写真の写し方〟の話しもあって、教育キャンプの意識を深めた。参加者は、高知県教委二名、東津野教委二名、東津野役場三名、講師団三名、両村青年三九名、愛大生三名、梼原村青年三名、高知相互六名の六二名の上に、〝かもしか山岳会〟三〇名も日程の一部に加わるなどして、たのしい愉快なキャンプとなった。両村青年代表による再会を約す言葉と、参加者の固い握手の内に〝お別れの歌〟で終幕した。
 農業基本法が動き出した昭和三六年。行き詰まりを感じる農業がどう変ろうとしているのか、体ごと実感としてつかみとってこようと、青年団産業部の呼びかけで集った、山下尋徳・山口貴由・竹村忠嘉・山下清則・森一久社会教育主事の五人の面々。行き先とコースを小田・内子・中山・伊予・松山・久谷・久万ときめて、九月二八日の朝七時半に落出を出発した。
 オンボロ自転車に油をさしさし、砂利道によろけながら、坂道はテクテク押して歩き、右の柿を見、左の栗を見、道端の稲穂を数え、湧き水でノドをうるおし、農家を訪れては、養鶏の実態、養豚の共同化、当時として、牛の肥育で三か月に九万円稼いだという農家の庭先では、牛の話に花が咲き、ダヤからわざわざ牛を出して見せてもらったり、中山農協の栗の集荷の最盛期に眼をパチクリしたり、農夫を訪ねて、みかんをご馳走になりながら栽培上の問題点を質問したりした。訪れた農家は、いずれも意欲に満ち、その土地土地の条件をうまく生かして経営に取り組んでいる様子を学び、農業試験場久万分場では、畑作利用の飼料作物の成績を見るなどして、よそに負けてたまるかの意欲を燃やしながら二泊三日のコースを元気にペダルを踏みとおして帰ってきたひとコマもあった。

 人口過疎化と青年団 

 昭和三六年は、県連青や郡連青にとって、正常化の波をもろにかぶる大きな試練の年となったが、柳谷村青年団にとっては、団員の減少が大きな問題となり、九月の東津野村との交流キャンプなどを最後に自然消滅の状態となってしまった。
 組織のないまま、五年間が過ぎたのであるが、この間、数少ない在村青年の手で、幾度か新しい組織づくりが試みられたが、幾多の困難に直面し、一度壊滅した組織の再建には時間を必要とした。
 絶対数の減少はやむを得ないとしても、村に残る青年たち自身にも、都市への流出ムードにおかされてか、しっかり腰を落着けて仕事に取り組む青年も少なく、職業構成も多種多様で、勤めの青年が多い現状であった。このような現状の中で、まじめに郷土の将来を考え、そこに自分の将来の生活設計を堅実につくっていこうとする青年たちが、グループ活動や、スポーツ、レクリェーションを通じて仲間の集りを求め、機会のあるごとに仲間づくりと在村青年の友好を深めようと、地味な活動が続けられた中で、新しい組織再建の要望が次第に高まり、この年になって組織づくりを目標とした具体的な動きがはじまったのである。その具体例をみると、
○在村青年の実態調査 (約一〇〇名が碓認された。)
○各地での話し合い。
○村内三地区合同の話し合い。
○郡青年スポーツ大会参加の決定(運営委員の選出及び選手の選出)。
○郡青年スポーツ大会へ参加(四三名参加)。
○発起人会の発足。
○再度の実態調査(在村青年一人一人を碓認し一二一名を確認した)。
 発起人会では、結成大会を開催するべく約一週間をかけてすべての準備を進め、青年団結成の運びになったもので、八月二七日午後二時より落出公会堂に、近澤村長、森教育長、岡本幾雄農協長代理、中村利光柳井川公民館長らを来賓に迎えて、柳谷村青年団結成大会を開催し、団員五三名が出席して、団長に鶴井国夫を選出し、団員七〇名をもって青年団が五年ぶりに再発足したのであった。その後郡連、県連へも加入して地道な活動が続くのである。
 この年、青年団文集「道」の第一号が創刊され、文化部事業として以後年に一回精力的に刊行されていく。
 四〇年の成人式は参加希望者の減少のため、遂に村主催での催しができないため、該当者には丁重なお詑びをして記念品を送り届けてすませた。このようなことから、四一年の成人式は、はじめて青年団が主催することになって、柳谷中学校を会場に開催し、以後毎年、青年団の年中行事の一つとして、現在に引継がれているのである。
 その後、団員の消長はあったが、年々の団長の指導よろしきを得て、成人式・スポーツ大会・盆踊り・明神山の道刈り・クリスマスパーティなどが伝統行事として引継がれている。
 昭和五〇年には、青年団には且てない大事業である「村民文化祭」が企画された。議会でもいろいろ論議を呼んだが、青年団の健全育成の主旨が生かされ、事業費として村からの補助金二五万円が認められた。団長渡部敏を中心に団員はよくまとまり、三本一雄社会教育主事の献身的な指導もあって、三か月前から第一回テーマ「目で見る柳谷の歩み」の写真展の準備に入り、村民の協力を得て各戸にある、めずらしい古い写真を借り集め、引き伸ばして展示する作業に一か月前から、毎夜二〇名ほどが参加して熱心に準備がすすめられた。いよいよ一一月二・三日は好天に恵まれて、第一回村民文化祭をたのしみに、大勢の人々が詰めかけた中央公民館の会場には、絵画・書道・お花・手芸・民芸品・盆栽展示等々にお茶席。メーンテーマは「目で見る柳谷の歩み」。はじめて見る村の出来事のめずらしい写真が話題となった。各種発表会のプログラムとともに大好評裡に終った。
 この村民文化祭はその後も年々催されており、実施する青年側は、毎年如のテーマの設定、準備、開催に至るその過程は、団員の一致協力・役割り分担・能力・労力の提供等々、青年にとっては生きた学習であり、努力したことが村民に認められるので、青年の生きがい、やりがいともなっているのである。青年団としては、このような大事業に取り組んでいる例が他にないことから、後に、「優良青年団」として、愛媛県知事から表彰を受けている。
 昭和五七年には、「サマーフェスティバル・イン・四国カルスト」が企画され、青年団はフォーク・ロックコンサートを担当。田舎と都市のふれ合いの場をつくるこの催しは、人気を呼んだが終り近くに雨にたたられた。
 五八年には続いて第二回を開催し、婦人の営む「ふるさとの味」と共に青年の「フォーク・ロックコンサート」による田舎と都市のふれ合いの催しは、団員はあまり多いとはいえないが、柳谷青年の気を大いに吐いているのである。

柳谷村青年団団長

柳谷村青年団団長