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柳谷村誌

四 婦人会活動

 婦人会の結成と婦人の自覚 

 昭和二四年八月一四日役場会議室で、他の民主団体よりは遅れて婦人会が結成された。初代会長は鈴木嘉子であった。組織はまだ弱く、柳井川地区が中心になって活動を進めていた。昭和二七年ごろの役員構成は、会長以下が柳井川地区、しかも落出に集中しており、西谷地区の婦人会活動が低調であったことがうかがわれる。このころまでの婦人教育は、戦後の食糧不足がようやく安定し、食生活の改善が、主婦の大きな課題としてとりあげられた。また「男女同権」の言葉の流行にみられるように、婦人の参政権が認められたことに関連して、選挙のあり方など婦人自らの自覚を促し、社会参加のための普及教育が中心に進められた。
 しかし、全体としては、まだ主体性に欠けたものであった。特にこの時期の婦人活動の特徴は、小集落単位による活動が盛んである反面、村婦人会としての活動は、上浮穴郡連合婦人会へつながっての指導者研修などが主で、あまりはなばなしい活動は見られなかったようである。
 昭和二七年、教育委員会が発足したころから、婦人会活動と相まって、婦人学級の普及が社会教育の一環として位置づけられ、婦人活動は活発になってきた。二八年五月、婦人会より「児童福祉週間」の映写会の補助申請に対して三〇〇〇円の補助。同じく七月、西谷母親学校開校に、村費で講師を派遣するなどの動きが見られた。
 二九年五月、教育委員会では、「昭和二九年度柳谷村婦人学級運営計画」と、西谷婦人学級主事大西清馬、柳井川婦人学級主事鈴木幸栄を委嘱することを決めており、これ以後は婦人会を主体にしながらも、教育委員会指導の形で学級が運営されるようになった。
 二六年九月一五日、第一回敬老会を柳井川、西谷婦人会が青年団の協力によって大字ごとに実施している。この時の経費は婦人会独自のまかないであり、以後公民館事業に引継ぐまでは、婦人会の経費で継続されていくのである。
 三〇年四月二八日の教育委員会協議会で、婦人関係者を交えて婦人会の構成について、西谷を独立とせず、支部を構成することが協議されており、村一本化がはかられたようである。このとき、敬老会についても村より老人一人三〇〇円程度の補助をすることを村長が発言しており、以後村費補助がされるようになった。
 昭和三一年に川瀬村上畑野川公民館で開催された「第一回上浮穴郡婦人大会」に参加してから意識的に目覚め、活動にも変化が見られ婦人教育の内容も、新しい知識を習う受身の内容から、地域生活課題と取り組む実践活動へと発展し、社会教育を教育行政の中に位置づけるための社会教育主事の設置運動が進められた。
 昭和三二年三月には、新生活運動が活発化し、「第二回新生活運動推進全国地域婦人大会」 (東京で開催)に村から会長森岡晴子が出席した。これまでの活動での生活改善については、農業改良普及員や生活改良普及員の指導に負うところが大きかった。

 婦人会と学習活動 

 昭和三二年四月、社会教育主事が設置され、方向づけされると、その活動は急激に展開されるようになった。その一つが、幼児学級開設運動となって集約され、学習活動と実践活動が両輪となって展開し、今日の幼児教育の基礎が築かれたのである。
 婦人会の組織は、昭和三〇年の町村合併と同時に再編成され、会長に白木マリエが就任するとともに、大字単位に三支部を設置して、活動の末端浸透がはかられた。
 昭和三三年三月には、生活学校上級コース(指導者養成)が川下地区(美川村役場)で開催されると、その学習内容が婦人の学習意欲をそそり、昭和三四年には、柳谷村内での開設へと進み、さらに昭和三六年、三七年に至って生活学校初級コースとして、村内三か所(大字単位)で開催されるまでに普及し、どの学級も五〇名を下らない盛況ぶりであった。
 昭和三三年度に名荷婦人学級が、さらに昭和三七年度に中津婦人学級がそれぞれ文部省委嘱婦人学級に指定される等、婦人の学習活動はめざましいものがあった。このころまでの婦人活動の一例として、「新旧暦の統一運動」がある。正月、節句、お盆などは、新旧暦が混合しており、新暦でやる人、旧暦でやる人、果ては両方やる人などであったので、生活の合理化として起した運動であった。一部には「男をさしおいて女が出しゃばる」との反感もあったが、組常会で申し合わせる所も出るようになり、やがて全村的に新暦に統一された。
 その他、食生活の改善運動、家族計画の学習活動、公明選挙の学習活動、結婚改善運動、家計簿記帳運動などの活動が展開された。特に町をきれいにする運動で落出地区では、村の助成を得て伍組単位に塵芥焼却炉が設置されたりした。
 「子供の日」「敬老の日」の行事も、婦人会が中心になって実行してきた。この当時の指導者として白木マリエ、山中辰江、稲田利久、中居栄などの活躍はめざましいものがあった。

 人口過疎化と婦人会 

 昭和三八年ごろを契機に、活発な末端運動に後退の傾向が見られるようになった反面、村婦人会中心の活動が進められるようになってきたが、その背景には、人口の減少や指導者の不足などのほか、だんだん上昇するテレビの普及が、婦人を家庭に釘づけして、末端活動をむずかしくさせたとも見られる。
 昭和四一年から四二年にかけて、各支部を単位に「家庭教育のあり方」「消費生活への対処」「家族の健康管理」等を学習課題に生活学校や婦人学級が継統されたが、婦人運動には結びつかなかった。そして婦人会活動は行事の消化中心に進められる傾向になってきた。
 昭和四一年七月「第一回親子読書運動活動集会」が開催され、親と子の読書活動を通して、「円満な人づくり」「しあわせな家庭づくり」「あかるい家庭づくり」をめざした婦人教育が始められ、村内三小学校を拠点として、親子二〇分読書運動として展開された。

 公民館活動と婦人会 

 昭和四三年には、保育所を単位として、家庭教育学級が開設され、さらに昭和四五年、中央公民館建築が実現、学習活動に加えて趣味活動が盛んになる一方、社会体育の振興によって婦人のスポーツ志向も高まってきた。このような推移から会員は地縁集団として結ばれてきた婦人会から脱落、目的集団への移行現象が見られ、さらに縫製工場や電気工場、建設業への婦人賃金労働者が増加するなど、婦人職種の多様化、婦人どうしの人間関係、役員にはなりたくないなどの要因によって、婦人会活動に参加するメンバーは減少、固定化するとともに、公民館の組織や活動が強化されるにつれて、その活動の場もせばめられた。
 五〇年代に入っては、こうしたむずかしい条件の中で、婦人会の伝統を守りながら、敬老の日の行事、婦人検診、地域美化推進、老人ホーム訪問、独居老人の訪問、太陽のお母さん運動、保健栄養推進、ミニーバレーボール大会等、幅広い活動目標をかかげて、婦人会の灯をともしつづけている。
 また一方では、生活改善グループが、生活改善を中心に据えながら、生産活動によって村の特産品を創出する試みに挑戦し、四国カルストを拠点に「田舎の味」の売り出しにつとめている力強い動きも見られてきている。

柳谷村婦人会長

柳谷村婦人会長