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柳谷村誌

九 公民館活動

 公民館の源流 

 「何故公民館を作る必要があるのか」公民館の源流であり指導理念であるいわゆる文部次官通達は、昭和二一年七月五日、各地方長官あてに発せられたのである。その一部は次のとおりである。

  公民館の設段運営について

 国民の教養を高めて、道徳的知識的並びに政治的の水準を引上げ、また町村自治体に民主主義の実際的訓練を与えると共に、科学思想を普及して、平和産業を振興する基を築くことは、新日本建設の為に最も重要な問題と考えられるが、この要請に応ずるために地方においては社会教育の中枢機関としての郷土図書館、公会堂、町村民集会所の設置計画が進捗し、其の実現を見つつあるものも少くない事はまことに欣ばしい事である。よって本省に於ての此の種の計画が、全国各町村の自発的な創意努力によって、益々力強く推進されることを希望し、今般凡そ別紙要綱に基づく町村公民館の設置を奨励することになったから、青年学校の運営と併行して適切な指導奨励を加えられるよう命に依って通牒する。尚本件については内務省、大蔵省、商工省、農林省及び厚生省に於て諒解済であることを附記する。

  公民館の趣旨及び目的

 これからの日本に最も大切なことは、すべての国民が豊かな文化的教養を身につけ、他人に頼らず自主的に物を考え平和的協力的に行動する学習を養うことである。そして之を基礎として盛んに平和的産業を興し、新しい民主日本に生れ変ることである。その為には教育の普及を何よりも必要とする。わが国の教育は国民学校や青年学校を通じ一応どんな田舎にも普及した形ではあるが、今後の国民教育は青少年を対象とするのみでなく、大人も子供も男も女も、産業人も教育者もみんなお互いに睦みあい導きあってお互いの教養を高めてゆく様な方法が取られねばならない。公民館は全国の各市町村に設置せられ、此処に常時に町村民が集まって談論し、生活上産業上の指導を受けお互いの交友を深める場所である。それは謂わば郷土における公民学校・図書館・博物館・公会堂・町村民集会所・産業指導所などの機能を兼ねた文化教養の機関である。それは亦、青年団、婦人会などの町村における文化団体の本部ともなり、各団体が相提携して町村振興の底力を生み出す場所でもある。
 この施設は上からの命令で設置されるのでなく、真の町村民の自主的な要望と協力とによって設置せられ、又町村自身の創意と財力によって維持せられてゆくことが理想である。

 なお、この要綱では「運営上の方針」「設置運営」「維持及び運営」「編成及び設置」「事業」「運営上の注意」「設置手段」「指導」「備考」などの九項目にわたっているが、ここでは省略する。

 公民館運動と村のかかわり 

 上浮穴郡で公民館が最も早く建設されたのは、旧川瀬村下畑野川であった。昭和二一年一月、文部省は新しい国づくり、郷土づくりの拠点として公民館構想を新聞に発表した。この構想を当時の川瀬村下畑野川の青年が取り上げ、二年四か月の歳月をかけて昭和二三年五月に完成させた。
 この時期は、全国的に食糧不足やすべての資材不足という最悪の状況にあったが、青年団の二年有余にわたる勤労奉仕や集落あげての財政的支えという民間運動の力を結集して、みごとに完成したのであった。
 この建築運動の組織的な高まりは、公民館を中心とする人づくり、村づくり運動へと発展し、やがて川瀬村全村教育体制が整うのであり、それが刺激となって、郡内各町村に公民館運動が波及していくのである。
 昭和二四年六月には、社会教育法が制定せられ、公民館の位置づけもはっきりして、町村に公民館が設置され、法に基づく運営がスタートするのである。昭和二六年一一月一六日松山市大林寺の月照公民館において愛媛県公民館連絡協議会結成大会が開かれ発足している。
 わが村では、二〇年代の前半において住民側の動きとして西谷分村問題、休場の分離問題等が起っており、おおよそ新しい村づくりとは反する方向の動きであった。行政側では、これらの問題処理や、食糧過重供出割当処理事件、六・三制による新制中学校の建築に要する財政問題や位置問題の結着に追われる状態で、公民館に対する国や県の指導は、さきの次官通違に示すように、村や住民の自主性、自発性に待つとのおだやかなものであったので、公民館については意欲らしいものが見られず、行政指導としても何らの手も打たれなかったのが実情であった。
 住民側の一部では、建物を建築して新しい時代の動きに即応しようとそれらしい動きが確かに見られたにもかかわらず、そこから公民館活動にまでは踏込めず、実らなかったということには、住民側としても、今一つ自発性に欠けるところがあり、壁を破るだけの力不足、あるいは時代を好リードする民問指導者が不在であった等のことが考えられる。折角の建物も結局、演芸会場や映画館化して、安易な娯楽本位に妥協していった。このような事情から、他町村の着実な公民館活動に比べて、わが村は〝眠れる獅子〟の時代が昭和三四年ごろまでつづくのである。
 昭和三二年度より社会教育行政として郡内各町村との交流が深まるにつれ、他町村の公民館の発展ぶりに驚かされるが、いかにあせりを感じても、着実な実績の積重ねと時間をかけなければ、遅れを取り戻すことはできず、これから苦節一〇年の社会教育の営みが始まるのである。

 青空公民館のスタート 

 三〇年代の前半ごろ、青年団運動の中で、公民館設置運動も見られたが、館の建設は当分望めそうもない情勢なので、制度だけでも先行させて体制づくりをと、昭和三五年三月、「柳谷村公民館の設置及び管理に関する条例」と、それに附随する規則が制定された。一応青空公民館ではあるが、制度が動き出すことになったのである。
 中央公民館長に村長、地区公民館長に各小学校長、主事に同じく教頭が委嘱された(後に地区館を分館に改めている。)。実際の活動に入ってみると、院長や教頭の兼務では職務上の支障や、住民との間の遠慮などもあって問題点が多く、期待された成果には至らなかった。
 昭和三八年四月から、地区公民館長、主事を民間人に委嘱するようになった。館長は柳井川正岡一栄、西谷西本正、中津井野田要、主事は柳井川中村利光、西谷中村寿恋雄、中津山中貞一であった。分館活動の中心はスポーツ活動で、地域運動会の開催、ソフトボール、婦人会と共同の敬老会、盆踊りなど行事中心に進められた。産業教育の場として、各分館単位に講演会や講習会も開催されたが、単発に終って十分な成果に結びつかなかった。
 中央公民館では、三八年七月から「柳谷村生産大学講座」(年問八日間五〇時間)を無量寺で開設した。九月にはその一環として、受講者が一泊二日で野村種畜場及び中山町栗出荷状況などの先進地の視察をしており、産業教育に力を入れている。西谷ではこの年一二月一二日、第一回西谷地区公民館研究大会を開催して、住民の意識高揚をはかる営みがみられる。
 四一年には、地域主幹作目の生産拡大をはかるために、生産学習が活発にとりあげられるようになり、一般成人の公民館活動への参加がはじまるとともに、目的別のグループ作りが進められた。四二年には館長、主事による先進地伊予郡双海町の公民館視察が行われ、大いに刺激を受けて、地域公民館活動の在り方について真剣に討議され、役職員の研修が続けられたが、もらされる言葉は館が欲しいということであった。
 四四年柳井川分館が、郡公連の実験公民館に指定され「過疎地域における日雇労働者収入実態調査」をテーマに、調査活動と問題分析による地域課題として提起、村内労働者と出稼者との賃金格差が、出稼ぎ増大の大きな原因であると指摘して、大きな反響をよんだ。

 中央公民館の建設と活動 

 急激な社会の変化と、村の過疎化現象の中で、社会教育振興を重要課題とする近澤村政は、前述のように四五年一月庁舎併設の中央公民館を建設した。三五年に制度が発足してから苦節一〇年。行小は小・中学校・落出公会堂・無量寺などの借りもので、不便この上なく住民側も物足りなかった。夢にまで見た待望の「公民館」と呼べる建物が実現したのである。村民各層の喜びの声が「広報やなだに」に寄せられている。同年から公民館産業部で、アマゴの養殖が研究検討されるようになり、のちに村産業課で取り上げ、村の産業として確立された。
 中央公民館建設以来、大幅に中央公民館中心の行事で、集めることに集中したため、新しい社会教育の方向として出かける社会教育の必要性がいわれるようにもなってきた。
 四七年度からは、分館活動の強化充実をめざした専門部活動に重点が置かれ、文化部、産業部、体育部がそれぞれ地域課題と取り組み、文化部を中心とした文化財調査活動、体育部の住民総参加の社会体育活動は年々拡充されていった。
 四八年度から産業部による「新産業調査研究活動」が村からの助成により、久万農業改良普及所の全面的協力で「風土農業の開発」を使命としてはなばなしくスタートした。ウド・リンドウ・ヤマゴボウ・ヤマイモなどを特産品化しようと、農家を定めて実験を試みたが、他産業との賃金格差があるため、実験農家が本腰を入れて真剣に取り組まなかったこともあって、三年間で実験結果を報告書にまとめたが、見るべき実績につながらなかった。現在では、産業課が引継いで、ヤマゴボウ・ゼンマイの特産化を手がけている。
 庁舎併用公民館から四九年一二月、基幹集落センター(センターやなだに)に教育委員会事務局も移転して、実質的な公民館運営がされるようになった。今までは結婚披露宴・民謡・三味線・吟詠・フォーク等、音の伴うものは遠慮しなければならなかったが、多目的に自由な活用が出来ることになって、村民は大歓迎であった。はじめは利用が心配されたが、使用しない日がめずらしいほどの盛況で、公民館としても新しいプログラムを提供したり、このころから文化活動にも力を入れたので、他町村にくらべて低調であった趣味活動も全村的に拡充されるようになってきた。これらの実績が認められて、昭和五二年一〇月一二日の愛媛県公民館研究大会において、柳谷中央公民館が優良公民館の県表彰を受けた。

 地域公民館の建設と活動 

 五二年から五三年にかけて、西谷公民館(西谷生活改善センター)・中津公民館(中津集会所)が次々に完成された。西谷・中津住民にとっても、公民館関係者にとっても待望久しかった館であっただけに、大変に喜ばれて住民のよりどころとして利用され、公民館本来の機能を果たしている。さらに五八・九年度事業で、森林組合の複合建物として柳井川公民館も建築が計画されており、各集落の集会所も年次計画で逐次新築されてきたので、昔とはくらべものにならない設備の整った集会所が村中に行きわたろうとしている。このような積極的な施設づくりによって、出発の時点では他町村と大きな隔たりがあったが、今では追いつき、追い越しの色彩もおびてきたと思えるほどである。
 その反面、人口の過疎化は止まらず低減がつづく中で、高齢化現象が顕著になってきた。中央公民館では五二年六月、〝活気のみなぎる一〇年後の若者の住む村づくり〟を村民みんなで考える学習問題として提起したのであった。一部には反響があったが、問題が大きいだけに村民みんなの学習課題にはならなかった。
 五四年度ごろより、水力の電源開発事業が起った。公民館事業にも好況の波が影響するところ大きいものがあった。各分館活動の長くてしかも着実な歩みと実績の積重ねが、五五年の中津ふるさとまつりに、五六年の西谷林業まつりに、そして五七年の商工まつりに、住民の地域づくりへの意欲として結集されていくのである。

中央公民館

中央公民館


柳井川分館

柳井川分館


西谷分館

西谷分館


中津分館

中津分館