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柳谷村誌

第一章 衣食住のうつりかわり

 衣食住は人の一生にとって、最も重要な役割りをもつものである。それが藩政時代にあっては、農民の衣食住については、すべてご法度であらゆる規制を受けていた。そのころ松山藩から示されたお布令、寛文一〇(一六七〇)年によると、「百姓の衣類は、布木綿の外は着用すべからず」「百姓は、食物常々かろく雑殼を用いるべし、米を乱りに費すべからず」「山林、竹木は無断で乱りに伐採するべからざること」など、またその後「絹類、衣類は申すに及ばず、袖縁、襦袢、笠の紐に至るまで、絹類、紬一切無用、木綿であっても高価な目立しい色、模様付き等は用いてはならない」など、このようなことによって、代官より、年々再々にわたって、厳しく村々の庄屋へ伝達された。このような時代にあっては、あまり衣食住の進展はみられなかった。
 明治維新になって、これらの規制は解かれたけれども、経済豊かならず、依然として農民の生活は、粗衣、粗食の苦しい生活状態が長い間続いた。明治時代の末期から、大正時代にかけて、いわゆる文明開化の波がおしよせ、洋風が取り入れられるようになって、衣食住の生活も複雑多様に変化しながら、都会から田舎へとだんだん波及してきた。明治末期、そのころの我が村では、村人を驚かす水力発電所の建設(産経通運編参照)が始まって、村の一部では、大正六年早くも電灯がつくなどあらゆる面で村の文明開発が促進され、衣食住の生活においても大きく進展しながら、昭和初期を迎えた。昭和一六年になって、太平洋戦争が始まり、衣類も食糧もあらゆる物資が欠乏するようになった。
 昭和二〇年終戦後のどさくさ、復員、引揚げの人達によって、村の人口は増加し、食糧をはじめ諸物資の不足、食糧の強制供出、闇取引き・インフレなど、衣食住の生活は、実に窮迫の時代であった。
 昭和二五・六年ころから、経済状態がようやく好転の兆しを見せ始め、やがて三〇年代には、高度の経済成長によって、物資が豊富に出回るようになり、所得の向上、あらゆる文明の発達によって、衣食住の生活は急激に進展した。自家用自動車の普及、近代的な住宅、明るく改善された台所、風呂、電気製品がずらりと並べられ、さっぱりした衣服を着て、米の飯を食べることができる。テレビでは、世界のニュースが坐っていて知ることができる。このような衣食住の生活、ここ、二、三〇年来の生活様式のうつりかわりは、夢の如く、まさに鷲異の一大変化である。
 ここに、主として、明治から大正・昭和の時代へのうつりかわりを迫ってみる。