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柳谷村誌

一 衣服

 庶民の衣料の主流は、元禄(一六八八~一七〇三)のころから、次第に麻布から綿織物に移っていった。生活のすべての面において自給自足を原則とする時代にあっては、木綿が手に入る以前は、我が村あたりでも、麻を栽培し、これを織って衣服にしていたといわれ、その苦労はなみたいていのものではなかった。
 ここで衣服を、晴着、ふだん着、仕事着に区分してみてみる。

 晴 着 

 晴着は、ヨソイキ、イッチョウライなどといい、その中で特に冠婚葬祭の儀式に着るものを式服という。羽織袴や、女子の裾模様の着物は、明治の後期から着はじめ、それ以前は、農家の花嫁衣装も新しい縞の着物がほとんどであって、男子もまた縞の着物ですませ、袴をはくのはまれであった。我が村あたりで、羽織袴や、裾模様の着物が式服として普及したのは、昭和の時代に入ってからである。
 戦後、昭和三〇年前後から、衣服の変化はめざましく、結婚式の服装も華美になり、男子は羽織袴かモーニングで、女子は豪華な裾模様のうちかけ、あるいは、ウエディングドレスなど、しかしこれはほとんど貸衣装を利用している。また最近は式服も、略礼服が流行し、儀式の時に着用するようになった。
 晴着のうちヨソイキは、正月や祭り、あるいは、神仏参りとか、その他外出の時に着る。
 明治三九年、日露戦争が終ったころから、紡績・織物の会社が県内にも各地にできて、いろいろ変った反物が市販されるようになって、衣類の様相もだんだん変ってきた。そのころから、大正時代にかけて、成人男子が着物の上に羽織り、ヨソイキなどにいつも着用したものに、アツシ(厚司)がある。
 アツシは、大阪地方で産出された、厚くて丈夫な平地の木綿、または毛の織物で、ハンテン仕立にし、両側の内にカクシポケットがついているのが特色だった。
 昭和初期にかけて、外とうとして、インバ、ヒキマキ(マント)が流行し、和服の上にこれをひっかけた。スフ(スティーブルファイバー)・人絹が現われるようになって、衣料品に大影響を及ぼしたが品質において絹製品には及ばなかった。
 太平洋戦争中は、衣料品は配給制になって、衣料キップがなければ何も購入できなかった。戦争たけなわとなって、男子には国民服、女子にはモンペの着用が農村に至るまで強制され、ヨソイキの着物を着ることはほとんどなくなっていた。
 戦後になって、従来のスフ・人絹に加えて、ナイロン・テトロン・ビニロンなど、優れた化学合成繊維が、次々と開発され、色・柄・デザインも近代感覚を取り入れたものが、豊富になるとともに、洋服が流行し、現在日常生活における衣類は、ほとんど洋服化してしまった。

 ふだん着 

 ふだん着は、農民の日常生活に直接かかわりあいの深いものであった。ふだん着は、ヨソイキの古くなったものを下して着ていた。ふだん着といっても、それは多くの場合仕事着でもあった。農民の生活は、朝起きると、男女ともすぐ仕事にかかり、夜は夜なべ仕事をするというように、起きている間は働きずくめというのが原状であったからである。
 ドンザが冬の防寒着として、男女を問わず着用された。ドンザとは、古いきれを重ねて、刺し子にした着物で、仕事着である場合もあるが、やや長めにつくったものは、家に居るときふだん着として用いられ、夜は寝具にも適用した。ユルリのはたで、ドンザだけで、火をたきながら寝ていた時代もあったようである。
 赤ゲット(毛布)が明治末期から大正初期にかけて流行した。これは、フサゲットなどとも言い外出の時肩にかけた。
 子供の着物もこのころは、木綿の縞の着物で、下着などあまりなく、男子が成人すると、さらし木綿の六尺ふんどしをしめ、女子は腰巻きをした。子供が、申又、ズロースを着けるようになったのは、我が村あたりでは、昭和五、六年ころからである。このころ女の子は、冬など寒い時は、木綿ネルの柄の肩かけを、頭からスッポリかぶった。
 戦後の洋服化によって、男子はセーター・ジャンパー、それに女子は、スカート・スラックス、若い人にはジーパンが大流行した。また近年は、体力づくりの普及によって、彩りも豊かなスポーツウェア(運動服)が運動着としてはもちろんのこと、家庭着、レジャー着として、老若男女のあいだで広く愛用されている。
 パジャマは、上下に分れた寝巻きである。明治時代から大正にかけて、我が村あたりでは特に寝巻きとしたものは着ず、ふだん着のまま寝ていたようである。ユカタまたはネルなどが出回るようになっても、なおふだん着で寝る場合が多かった。今日のように、子供から大人にいたるまで、男女をとわずパジャマを寝巻きとして、着るようになるまでには長い年月を要したのである。

 仕事着 

 仕事着は、着て働きやすいことが第一である。そのため、上半身と下半身が分かれているのが普通の形であった。男子は、ロッポ(筒袖の上衣)、マキソデともいう。ハンテン・デンチの上衣に、下衣は、イキバカマ(雪袴)。女子は、腰巻きにヒトエの着物の着流し、衣服のよごれや、いたみを防ぐためマエカケをつけた。
 デンチは防寒用として、仕事着はもちろんふだん着にも広く用いられた。各種の仕事は手足を動かすことが主となるため、手と足のこしらえにいろいろ工夫がなされていた。足にはわらでつくったハバキや布製の脚絆をつけて、手足を保護した。頭には、手ぬぐいでねじり鉢巻きや、ねえさんかぶり、ほほかぶりをすることが多かった。
 女子のモンペは、戦後長く仕事着として用いられた。昔から仕事着は、ふだん着の古くなったものから、おろして着用していたが、近年では、作業着としたものが作られるようになって着用されている。