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柳谷村誌

三 調理・炊事用具・食器

 鍋・釜 

 主食をたくのは、鉄の鋳物の羽釜・またツルカケ鍋があった。農家では、ユルリで煮炊するため、飯を炊くのも、主にツルカケ鍋を使用した。ツルカケ鍋は大小いろいろあり、大きいものを八マイヅルと呼んでいた。これを使う多人数の農家が昔は多かったのである。小さい鍋は、煮物・汁物を炊くのに使用した。羽釜は、昭和の初めころからアルミ製になり、戦後はアルマイトとなり、電気釜・ガス釜などの出現によって、あまり使われることがなくなった。

 茶沸し 

 昔は、土ビンといって、明治の終りごろまでは主として土製のものを使っていた。大正時代になって、ホウロウビキ・鉄の鋳物製、昭和になってアルミ製などが出るようになった。

 汁杓子 

 杓子は木製の汁杓子がおそくまで使われていた。その後アルミ製のものが出回った・木製の汁杓子は、クリの木などで作られた大きいもので、昔はよく行われていた縁日などのくじ引きで、タワシなどとともに景品などに使われたものである。

 桶 類 

 昔は木製の桶類が多くて、水桶をはじめ、味噌・醤油を作る桶・手提桶・手桶・ハンボ・飯ビツなど、大小さまざまな桶が用いられていた。桶は、モミ・マツ・スギなどの材質の良いものを選んで、竹の輪でしめて作った。これらの桶の輸替えは、「たる屋さん」と呼ばれる職人が何人かいて、年に一回は必ず農家を一軒一軒回って輪替えをした。古い輪をたる屋さんにはずしてもらって、子供達は輪ご回しをして遊んだものである。

 カゴ類 

 カゴ類は日常仕事に使用されるものを含めてたくさんあり、シタミや小さいザル類をはじめ、オイカゴ・タナカゴ・トリカゴ・イモホリカゴ・茶摘ミカゴからミにいたるまでさまざまだった。普通のカゴはそれぞれ自家製であったが、シタミ類やミなどは売りに来るのを買っていた。

 食 器 

 茶椀は、明治の初めころから、カラツモノを使うようになったが、汁椀は木製のものをやはり使っていた。箸は竹の自家製で、タカキビの煮出し汁で染めて使った。

 箱 膳 

 食器をのせたり、しまったりするのに、江戸末期のころから箱膳が広く使われた。箱膳は家族めいめいにかまえていて、その中には、箸・茶椀・汁椀・テシオザラ(小ザラ)を入れ、食事の時には自分の前に置き、ふたをひっくりかえして、それに食器を出してのせめいめいの飯台とした。食事が終ると、その都度食器を洗うことはなく箱膳に入れて、戸棚へみんなのをしまった。あまり衛生的ではないが便利であった。この箱膳は、農家では、ユルリが使われなくなって、そこへ飯台がおかれるようになったころまで用いられた。

 シタミ 

 飯ビツはあったけれども、夏は飯がスエル(クサル)のを防ぐため、シタミに入れてサナ(竹で編んだ小さなすだれ)をかけて涼しい軒下などに吊した。シタミはツルがついているので大変便利であり、いろいろなものを入れて、家の中にも吊されていた。

 弁当入れ 

 昔は弁当はにぎり飯にして竹の皮に包んでいた。藩政時代の終りころから、メンツが用いられた。メンツは、大きな竹の表皮を除き、内身をけずって、火や湯であたため、一枚の板のように伸ばし、さらにそれをあたためて、小判型に丸め、板で底を入れ、かぶせるようにふたを作り、必要によってはふたにも入れることができるように作った。小さいメンツを菜メンツと呼んだ。またこのころから、ヤナギコオリの弁当入れも使われるようになった。軽くて飯がスエにくいので、よそいきなどによく使われた。弁当ゴリと呼ばれていた。