データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

四 家の間取り

 農家の間取りが形造られたのは、近世になってのことである。家の間仕切りがない時代、中世の寝殿造りにおける几帳、広い部屋の一部に布(張)で囲んだ一区画を作って、プライバシーを保ったのであるが、農家では、寝間などにむしろや、板を利用したようである。間仕切りが板戸・障子・フスマと移動するように工夫され、婚礼や葬式など人が多く集るときは、大きな室として使用できるよう考えた。
 我が村で、明治時代に建てられた家の間取りが多かったと思われる様式を図示してみる。一列並び型と称される型がほとんどであり、それに隠居を一緒にとったものも多かった。隠居が一棟にとられているものは特に西谷方面に多く、これは豪雪による寒気のきびしさに対する生活の知恵だともいわれている。
 家の前には、ヒノリワと呼ばれる広場を物干しなどに使うために設けた。ヌワと呼ばれる土間が広いのは、ヌワに大釜が備え付けられて、コウゾ・ミツマタの皮はぎ・トウキビはぎなど、作業場として使用するためであった。
 ヌワぞいに茶の間・寝間・中の間・座敷・エンがとられて、寝間には夫婦が、中の間には子供たちが、座敷は来客の場合使うようになっていて、タタミは盆や正月、なにかことのある時だけ敷き、ふだんは板の間にしてタタミはそこへ積んでいた。その時代、タタミは敷付でなく備品であり道具として取扱っていたようである。
 隠居部屋にはとしよりが住み、世帯はおおむね別にしていた。茶の間にはユルリ(イロリ)が作られていた。ユルリは、三尺角、または、三尺三寸角の正方形に作られ、タタミ半枚敷きの大きさだった。ユルリで煮たきし、それを囲んで食事をし、暖房をとるなど、一家だんらんの場であり、日常生活に欠かせない存在であった。ユルリの周囲の座は、サキザ・テツザ・オクザ・シモザなどと呼ばれ、主人はサキザ、主婦はテツザ、客はオクザときまっていた。
 テツザは台所に近い方をとった。ユルリは火をたくと煙が充満するので、ユルリの真上の天井が空いており、屋根の両側にはハフと呼ばれる煙抜きが見られた。
 隠居部屋が一緒にとられていない場合は、近くに隠居屋が建てられた。納屋・駄屋なども近くに建てられていた。
 家の間取りも、戦後においては大きく変り、昔の来客中心から、家族中心に考えられるようになった。明るい南向きに居間をとり、中廊下などをとって、個室に仕切り、洋間などもとり入れられるようになった。

農家平面図

農家平面図